長崎に原爆が落とされた時、多くの被爆者が水を求めて目指した寺があります。その惨状を5歳の時に目の当たりにした女性が、18枚の絵に残しました。

長崎原爆の爆心地からおよそ1.2キロ、金比羅山の中腹にある「穴弘法奥之院・霊泉寺」。この寺には1945年8月9日、逃げ場と水を求める多くの被爆者が押し寄せ、そのまま息絶えた13人は寺に埋葬されました。

毎年8月9日に執り行われる平和祈念式典では、この寺で採水された湧水も原爆犠牲者に捧げられています。

住職・堤祐心さん:
「どうかこの水が『平和への道筋』となれば、そういう思いでお参りさせていただきました」

寺の本堂には、原爆の記憶を後世に残そうと《あの日》が描かれた18枚の水彩画が展示されています。

堤寛子さん:
「この時の光景は忘れられませんね…」

寺の長女5歳だった寛子さん

絵を描いた被爆者の堤寛子さんは寺の長女で当時5歳。原爆が落とされた時は、寺の奥の岩穴にいました。

堤寛子さん:
「灰色みたいな…色がすごい爆風…すごかったですよ勢いが。爆風よりちょっとよけたために助かって。ここを避難場所にしていたから、お布団なんかおいてあった、それをかぶって…。時間がどれくらいしたかわからんけど、かぶったまま怖かったからおったんですよ」

被爆した時に堤さんがいた岩穴は今も残っています。堤さんと母・弟は無事でしたが、自宅の梁の下敷きとなった祖母のテイさんは亡くなりました。

堤寛子さん:
「私はおばあちゃん子だったから辛かったですよ、本当に辛かった…」

しばらくして岩穴から外へ出ると、堤さんの目の前には信じられない光景が広がっていました。

堤寛子さん:
「金比羅山が真っ赤に燃えるんじゃなくて、焼けてた。炎なんか見えてない、焼けてる、それが強烈でしたね」

焼けただれたピンク色の人々

岩穴に流れる湧き水は当時、けがや病気が治ると信じられていました。あの日、原爆の熱線で体を焼かれ、焼けただれた人々が求めたのは、この湧き水でした。

堤寛子さん:
「水をくれー、水をくれー、とさまよっている人たちが這いながら来てたんですよ。女の方でしたけどここが真っ赤で、赤じゃなくてピンクみたいな赤みたい。焼けただれたのがひどかったですね」

戦後、寺に建てられた「平和観音」。堤さんは絵筆をとって、原爆で亡くなった人々の霊をとむらいます。

堤寛子さん:
「戦争はダメ。戦うことはダメ。お互いに許しあわないとですよね」

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