東京地検特捜部と言えば、泣く子も黙る、企業や政治家が震え上がる、日本最強の捜査機関、そんなイメージかも知れない。1997年から1998年にかけて、第一勧銀や4大証券の「総会屋事件」「大蔵省接待汚職事件」「防衛庁調達実施本部事件」など、バブルの後始末とも言える大型経済事件を立て続けに摘発した。現場は、家宅捜索で押収した証拠品のブツ読みや、参考人、容疑者の取り調べで、常に逼迫した状況が続いていた。
そんなとき、筆者は不思議な光景を目にする。超多忙な特捜部の現場で、なぜか毎日、定時になると退庁する特捜検事がいたのだ。のちにその検事の正体は、東京地検特捜部に所属する若狭勝検事であるとわかった。退官後は国会議員も経験し、現在はテレビのコメンテーターとして、お馴染みの弁護士だ。
じつは若狭は、ある家庭の事情を抱えていた。当時の上司は「特捜の申し子」と呼ばれた熊﨑勝彦・特捜部長だった。そんな若狭にとって、今も忘れらない熊﨑への恩がある。捜査の舞台裏で起きていた、知られざる物語とは。
「特捜部から異動させてもらえませんか」
1998年、日本のトップオブエリートの大蔵省が激震に揺れていた。野村証券や第一勧銀など大手金融機関から多額の接待を受けたとして大蔵省のノンキャリ2人、キャリア1人が逮捕され、大蔵省が東京地検特捜部の家宅捜索を受けたのだ。
筆者は当時、司法記者クラブ詰めの記者として「大蔵省接待汚職事件」の取材のため、日々特捜検事の動きに目を凝らしていた。
検察合同庁舎の8階から10階にある特捜部のフロアは連日、深夜まで明かりが灯り、特捜部の検事は平日は役所に泊まり込み、土日もなく、寸暇を惜しんで捜査にあたっていた。
筆者には当時、気になっていた一人の特捜検事がいた。その検事は夕方になるといつも、そそくさと退庁していた。ほぼ毎日だった。ときには早退するこの検事はいったい何者なのか。周囲の口もなんとなく重かったが、調べてみると、その特捜検事は特殊直告1班の若狭勝(35期)であることがわかった。
多くの特捜検事は、夜遅くまで庁内で参考人の任意の事情聴取や、逮捕した銀行の役員らが勾留されている小菅の「東京拘置所」に出向いて取り調べにあたっていた。もちろん土日も出勤していた。
若狭は当時、働きざかりの41歳、もしや新たな事件の端緒が見つかり、特命を受けて水面下で追っているのではないか、また国税当局や証券取引等監視委員会に出向いて、打ち合わせをしているのだろうか、ますます警戒した。
しかし、そうではなかった。
筆者はその理由を後日、特捜部長の熊﨑勝彦から聞かされた。
「若狭は妻が病気なんだよ。だから毎日、病院に行かないといけない」
それは予想外の言葉であった。
特捜部は当時、逼迫した状況にあったからだ。まさに1997年から1998年にかけて、野村証券・第一勧銀から総会屋への利益供与事件を摘発、そこで大蔵官僚への過剰接待の事実をつかみ、「聖域」と言われた大蔵省の強制捜査に乗り出した。その後も、防衛庁の装備品納入をめぐる事件の摘発など、絶え間ない捜査が続いていた。そのため、全国の地検や法務省から、多くの応援検事が集められ、一時期は検事が70人に拡大するなど、前例のない捜査態勢が敷かれていた。
そんな中、若狭だけは毎日、妻の見舞いに行くため仕事を早く切り上げていたのだ。
当時、若狭は東京・足立区青井に住んでいた。夕方になると東京・霞が関の東京地検から電車でいったん帰宅。そして自宅に戻るとそこから車を運転して、足立区の加平インターから高速道路にのって、妻が入院している千葉県・柏市の「国立がん研究センター東病院」まで通っていたのである。
じつは若狭の妻は、がんを宣告されていた。若狭は、特捜部の同僚たちが、猛烈に捜査に没頭しているのを横目で見ながら、申し訳なさそうに、妻の病床に足を運んだ。
そんなある日、若狭はとにかくいったん最前線の特捜部を離れるべきだと考え、特捜部長室に出向いて、熊﨑にこう申し出た。
「みなさんにも迷惑がかかると思いますので、特捜部から異動させてもらえませんか」
もちろん特捜部を出ることには寂しい思いもあったが、特捜部にいながら十分な仕事ができない以上、当然の決断だった。
しかし、熊﨑の反応は意外なものだった。
「おれは若狭のことは一番よくわかっている。おれがちゃんと面倒みるから、大丈夫だ。他の部に行くより、特捜部でおれの目の届くところにいたほうが、いろいろと融通がきく。安心しろ」
熊﨑は若狭に、特捜部に残るよう引き止めたのである。
若狭は、このときの心境をこう語る。
「熊﨑さんの配慮で、毎日夕方5時に帰っていいということになった。他の検事や事務官が働いている中で、いつも申し訳ないと思いながら、帰路についた。年齢的にも40歳そこそこということもあり、本来ならば、一番バリバリ働く時期でもあったかもしれない。上司や同僚の気持ちが痛いほど分かる中で、私は一人、早帰りをして、妻のいる病院へ直行する日々だった。今振り返ると、あのときは大変だったなと思うが、当時は毎日、出勤して仕事をして、病院に行って妻を見舞うという、ルーティンを続けることを目標にしていた。この一日一日が、長く続くことで、妻が長く生き延びることにつながり、快方に向かわせるのではと信じていた」
そんな妻との出会いは、中央大学の英会話クラブがきっかけだった。
「同じ学年で彼女は文学部、私は法学部だった。彼女は自分が前に出るよりは、一歩下がって与えられたことをきっちりこなすタイプ、生真面目で控えめな女性だった」(若狭)
若狭は、中央大学を卒業した1980年の10月に司法試験に合格、彼女は教職の道に進んだ。彼女は千葉で小学校の先生をしていたが、若狭が司法修習を終えた後、千葉県津田沼市に官舎を借りて同居をはじめた。結婚したのは1983年4月、検事に任官した年だった。
その翌年、検事2年目の若狭は福島地検に異動することになった。これを機に妻は、4年間務めた教師を辞めて専業主婦となり、福島で2人の子供が産まれた。
若狭は福島地検のあとは、横浜地検、法務省東京法務局へと異動、そして1993年に東京地検刑事部に配属となった。その年の3月、東京地検特捜部は政界のドン、自民党の金丸信元副総裁を巨額脱税事件で逮捕し、そこから波及した「ゼネコン汚職事件」捜査の真っ最中だった。若狭はすぐに「刑事部」から応援検事として「特捜部」に派遣されることなった。
そこで大物茨城県知事ルートの収賄側、大手ゼネコンの「ハザマ」や「清水建設」の役員の身柄を任される。東京拘置所でも取り調べを続け、自白を引き出すことができた。その活躍が当時、特捜部副部長だった熊﨑の目に止まり、翌年正式に特捜部に異動することになったのだ。
その間、妻は陰になり、日向になり、若狭を支えてきた。
妻にがんが見つかる
若狭の妻に「大腸がん」が見つかったのは1996年10月だった。東京地検特捜部はこの頃、「SEC」証券取引等監視委員会から、ある報告を受けていた。「野村証券」から「総会屋」小池隆一への利益供与の端緒だった。特捜部は「SEC」と連絡を取り合いながら、のちに「総会屋事件」「大蔵省接待汚職事件」につながる内偵捜査を始めた。
妻は、定期の健康診断で、ある項目がひっかかり、専門医による精密検査を受けた。数日後に検査結果が出たが、医師から呼び出しを受けたのは、なぜか若狭だけだった。若狭は、状況から「半ば覚悟していた」というが、やはり医師の口から出た言葉は「大腸がんです」という告知だった。まだ長男が小学6年、長女が小学4年のときだった。そこから、妻の療養生活が始まった。
若狭は当初、医師から「手術で切除すれば大丈夫」と説明を受けていたこともあり、死に至るような重篤な状態だとは全く考えていなかった。手術さえすれば、完治して元通りになるという感覚だったのだ。だが、治療を続けていくうちに、最初に抱いていた楽観的な状態ではないことに、徐々に気づかされる。
一度は手術に「成功した」と言われたが、全身のMRI検査をみると、やはり結果が思わしくなかったのだ。しかも、その後、がんの転移がわかり、次第に若狭の心配は募り、不安は大きくなっていった。
子供たちは、どう受け止めていたのか。
「重い病気であることは、子供たちも理解していたが、がんと言っても、それがどういう病気なのかは、おそらく分かっていなかったかも知れない。とくに娘は、まだ小学4年、あまりピンときていなかったのではないかと思う」(若狭)
一方、特捜部の捜査だが、大蔵キャリア、日銀キャリア、4大証券、第一勧銀の首脳らの逮捕者は
51人に上った。起訴されたのは39人という空前絶後の規模だった。
大蔵省は1998年4月、大物の「大蔵キャリア官僚」ら、MOF担などから過剰接待を受けていた職員112人の大量処分を発表。これにより「大蔵省接待汚職」の捜査は、事実上終結した。世間は検察と大蔵省が「手打ち」をしたとのではと受け止めた。
若狭の上司の熊﨑は、特捜部長から24期のトップを切って1998年6月、富山地検検事正へ栄転した。だが、筆者ら司法記者との送別会では「まだやり残したこともあった」と話していた。大手生命保険会社から大蔵キャリア官僚への接待や、大蔵省の叙勲の選定に便宜を図った大物大蔵キャリア官僚に対する収賄容疑が浮上し、現場は内偵捜査を続けていたが、1年以上にわたった捜査は「時間切れ」だった。
取材していた筆者にとっても、証拠関係が揃っているとされた大蔵キャリアの立件が見送られたことは、腑に落ちない着地でもあった。だが、法務・検察には「これ以上やったらきりがない」という判断もあった。これについては、改めて記したい。
若狭の妻は、2年あまりにわたる闘病の末、1999年2月11日、息を引き取った。享年42歳という若すぎる死だった。
妻の葬儀は、東京・荒川区の「町屋斎場」で営まれた。驚いたことに、そこには当時の検察庁のトップである北島敬介検事総長(13期)など、多くの検察首脳が参列していた。
目立たない41歳のヒラの特捜検事、しかも本人でなく、妻の葬儀に、検事総長ら検察首脳が弔問に訪れるのは異例中の異例だった。
それは、すでに富山地検に異動していた熊﨑が、あらかじめ検察首脳たちに若狭の事情を伝え、声を掛けていたからだった。妻を見舞いながら、黙々と仕事をこなしていた部下、若狭への最大の敬意だった。
若狭は、熊﨑の思いやり、心遣いが身に染みた。特捜検事を続けながら、勤務時間を制限して毎日、妻に会うことができた。亡くなったときには、まさか葬儀に検事総長が来るとは想像もしていなかった。
妻の死後、若狭は一人で子育てをしなければならなくなった。さすがにこのまま政財界の汚職事件の捜査に携わる余裕はなかった。そこで、特捜部のなかでも告訴・告発や交渉事を受け付ける「直告係」に配置換えを申し出た。そして家庭では、悲しみのどん底のなかで、シングルファーザーとしての生活がはじまった。
子供たちはそれぞれ、長男が中学2年、長女が小学校6年になっていたが、まだまだ母親を必要とする年齢である。最も大変だったのは、子供たちの心のケアだったという。母親を亡くしたショックと悲しみで、情緒が不安定となっていたからだ。
若狭は、当時を回顧する。
「登校前に、学校に行きたくないというトラブルは日常茶飯事で、中学2年の長男は『俺は死ぬ』と叫ぶことさえあった。中学2年生の14歳と言えば、最も多感な時期で、難しい年頃だった。ただでさえ反抗期などがある年齢。それまでは真面目に通学して成績も悪くなかったが、母親が病死したことは、頭で理解していても、心がついていかなったのだろう。遅刻したり、休む回数も増えた。学校によく呼び出され、先生との話し合いを持つ時間が増えた」
特捜検事の家庭はよく「母子家庭」と言われる。長年、妻が担ってきた子供の世話は、若狭にとって初めて経験することばかりだ。こうして子供たちと向き合いながら、孤軍奮闘した。
「小切手1億円」の「耳」
若狭は妻が亡くなってから1年間、特捜部の「直告班」で、なんとか仕事と子育てを両立していたが、2000年4月についに現場を離れることになった。やはり子育てをするには、第一線から離れてしばらくは、ゆっくりした職場環境が必要だった。そして「最高裁判所司法研修所」に検察教官、司法試験考査委員として着任した。
現場を離れたのは初めてだった。
「その年の春、桜ってきれいだなとあらためて感じられて、正直、うれしかった。よく司法修習生たちと懇親会をやったり、差し迫った責任もなく、のびのび過ごすことができた。特捜部とは180度、まったく違う場所に移って、心身がリフレッシュできた」
しかし、特捜部の現場を離れた若狭には、こんな思いがあった。
「東京地検特捜部という政界に切り込む、独自捜査ができる部署にいたにもかかわらず、妻の看病で、十分に働くことができず「不完全燃焼」に終わったという悔いが、いつも心のどこかにあった」
そして時は流れ、妻の死から4年が過ぎていた。やがて子供も大きくなり、育児の負担も徐々に減り、環境の変化もあったことから、2003年4月、若狭は再び、念願の東京地検特捜部へ復帰することになった。3度目の特捜部だった。
若狭はもう一度、特捜部でやれるチャンスを与えられた喜びで一杯だった。胸が高鳴っていた。手を上げて現場の一兵卒のキャップを希望した。同期(35期)は、すでに副部長になった検事もいたが、そんなことはどうでもよかった。
「とにかく、もう一度特捜部で捜査に関わることができることだけでありがたいと感じた。特捜部時代に燃焼できなかった空白、不完全燃焼を晴らしたいという気持ち、もう一度とにかく現場でやりたいと志願した」
希望通り、特捜部の第一線でキャップを務めることになり、仕事に邁進した。するとキャップになってしばらく経ったある日、のちに政治家の摘発につながる一つの情報が舞い込んできた。「『りそな銀行衆議院支店』の口座に『3000万円』が入っている」と記された一枚のハガキの投書だった。
若狭は、ただちにその銀行口座を調べて、名義人から事情を聞いたところ、どうやら「日本歯科医師連盟」に疑惑があることが見えてきたのだ。そのため「日本歯科医師連盟」の家宅捜索に踏み切った。そして捜索で押収した大量の証拠物の「ブツ読み」を続けていると・・・
ある日、段ボールの中から若狭みずからが、「小切手1億円」の紙片、いわゆる「耳」を発見したのである。若狭は「これは大事件に発展する」と直感的に感じたという。しかも、調べを進めると、その1億円は、自民党旧橋本派に流れた疑いが濃厚だった。
妻の死から再出発を期する若狭を奮い立たせた。
「一気に脳内にアドレナリンが放出された。そんな気持ちになるくらい、興奮状態だった」(若狭)
さらに「政治資金収支報告書」にも記載がないことがわかり、すべて「闇の金」である可能性が高いことが判明する。若狭は慌てて、当時の特捜部長・井内顕策(30期)に報告した。井内は「ゼネコン汚職」をはじめ、「野村証券・第一勧銀の総会屋事件」「大蔵省接待汚職」「中尾栄一事件」「西武鉄道事件」など、政官財が絡む多くの大型経済事件に携わり、捜査を熟知した指揮官だった。永田町からも恐れられる存在だった。
報告を聞いた井内は、血相を変えてこう言った。
「おい若狭、これ大変なことになったよ。もう上げ下げできなくなっちゃうよ」
つまり、「証拠」が目の前にある以上、やるしかないということだ。この「小切手1億円」の「耳」が端緒となり、特捜部は、「日本歯科医師連盟」から自民党橋本派「平成研究会」へ「1億円」が流れていたことを突き止めた。
まず、献金をした側の「日本歯科医師連盟」の会長を逮捕、起訴した。これを突破口に、2004年8月29日、ついに橋本派の事務所「平成研究会」の家宅捜索に踏み込んだ。さらに自民党最大派閥・橋本派の会長代理でキーマンだった、村岡兼造元官房長官を在宅起訴したのである。(いずれも後に有罪確定)
事件の公判では、橋本派に流れた「1億円」の処理をめぐって、橋本龍太郎元首相や野中広務元幹事長、青木幹雄自民党参議院議員会長ら、超大物が証人として出廷した。
橋本元首相は特捜部に事情聴取を受けたが、嫌疑不十分で不起訴、野中広務元官房長官についても不起訴(起訴猶予)となったが、特捜部が政権中枢の本丸に切り込んだことは、自民党に大きな打撃を与えた。橋本元首相は責任をとって橋本派会長を辞任、派閥からも離脱、2005年の衆院解散で政界を引退したのである。
若狭はこの間、寸暇を惜しんで捜査に没頭した。
「特捜部に復帰してからの感覚は、1日の仕事するたびごとに、もう365日分のうちの、1日が終わってしまった、、、そしてまたあっという間に、365日分の10日が終わってしまった、、、という感覚で生きていた。その日その日に、全力投球できる充実感でいっぱいだった。初めてそんな感覚になった」(若狭)
この日歯連事件は、国会議員が摘発されるたびにクローズアップされる「政治とカネ」の問題をあらためて、浮き彫りにした。
1988年のリクルート事件の反省などを踏まえ、1995年の「小選挙区制導入」と同時に始まった「政党助成金(政党交付金)制度」は、国民1人当たり250円、年間約320億円の税金を政党に配るというものだ。
その後、1999年に「企業・団体」から「政治家個人」への政治献金は禁止されたが、「政治団体」同士の献金は規制がなかった。それが、この事件をきっかけに「政治団体」間の献金が上限、5000万円に規制されることになったのである。
若狭は、再起をかけてカムバックした特捜部で、事件を掘り起こした。一連の捜査では、診療報酬引き上げをめぐる贈収賄事件や、日歯連に関係の深い国会議員による資金横領事件なども発覚。最終的に日歯連幹部6人、自民党国会議員2人、自民党派閥会計責任者、地方議員5人など計16人が起訴され、全員の有罪が確定した。
また自民党では田中、竹下、小渕、橋本と多くの首相を出してきた「経世会支配」が弱体化する転換点となり、事件翌年、2005年に行われた衆議院議員総選挙、いわゆる「郵政選挙」で、平成研は党内第一派閥の座を森派(のちに安倍派)「清和会」に明け渡すことになった。
若狭は、燃焼できなかった「空白の時間」を埋めるかのように、駆け抜けたのであった。
苦労する両親を見て育った
若狭には熊﨑ともう一人、忘れられない先輩がいる。それは3期先輩にあたる大鶴基成(32期)検事である。若狭はヒラ検事のときから、「割り屋」として名を馳せていた大鶴の背中を、常に追いかけるように歩んできた。
大鶴が特捜部のキャップのとき、若狭がサブキャップというコンビが最初だった。「ゼネコン汚職事件」では、大鶴が収賄側の茨城県知事を取り調べた際に、若狭は贈賄側のハザマや清水建設の幹部を取り調べた。
その後、大鶴が特捜部副部長になると、今度は若狭がキャップとなり、先に触れた通り2004年に「日歯連事件」を摘発。翌2005年には、大鶴が特捜部長に就任すると、若狭は特殊直告1班の副部長としてコンビを組む。
その「大鶴ー若狭」ラインで手掛けたのが、2000年の「橋梁(きょうりょう)談合事件」だった。日本道路公団が発注した「鋼鉄製橋梁」の建設工事の受注をめぐり、橋梁メーカーが談合を行っていたもので、日本道路公団のナンバー2の副総裁らの有罪が確定した。これは、独禁法違反事件として、発注者側が業者との共同正犯に問われた初めてのケースとなった。
若狭はその後、横浜地検刑事部長や東京地検公安部長などを経て2009年に退官し、弁護士に転身した。大鶴は特捜部長として「ライブドア事件」や「村上ファンド事件」、最高検の財政経済担当として「陸山会事件」などを指揮し、東京地検次席検事や最高検公判部長を経て2011年に退官。弁護士としてカルロス・ゴーンの弁護人などを務めた。
若狭は妻が亡くなったときに、大鶴が静かに声を掛けてくれたことが、心に残っている。
「おれの場合は父親を亡くしているが、子供にとって母親をなくすことは、本当にかわいそうだ、本当につらいことだと思う、、、」
大鶴は地元の大分県で、父親を亡くした経験があった。勉学に励み鹿児島県にある ラ・サール中学・高校から東大法学部に進んだ苦労人だ。若狭は特捜部の片隅にいた自分に寄り添ってくれた大鶴の気遣いを、今でも忘れることはない。
若狭にとって先輩検事の大鶴、特捜部長だった熊﨑とは共通のバックボーンがあった。それは子供の頃から、苦労する両親を見ながら育ったという、原風景だったかも知れない。
熊﨑は岐阜県益田郡萩原町の出身、現在の下呂市である。山あいの農家に生まれ、農作業を手伝った。父は農業を継いでほしいと思っていたという。そのため熊﨑は、高校卒業後に一旦は就職した。だが、法律家への夢を捨てられず、明治大学に入った。
そして27歳のときに司法試験に合格した。実家からは飛騨川の上流、益田川を見下ろす「御前山」が見える。夏は川で泳ぎ、広がるトマト畑やレンゲ畑でチョウを追いかけた。
「額に汗して働く正直者がばかを見るような社会であってはならない」
熊﨑に根差していたのは、そうした思いだった。
一方、若狭は東京・葛飾区生まれの足立区育ち。父の職業は、若い頃はタクシーの運転手、その後独立し、東京・足立区内で零細の町工場を営んでいた。毎日、プレス機械を踏んで、一個につき何十銭の価格で、下請け製品を加工するという仕事だった。そんな汗水流して働く父の姿が、若狭の目に焼き付いている。母は、父の工場を手伝いながら、若狭を育てた。一つ一つ丁寧に金属をはめていく、集中力と根気が必要な作業だった。そんな両親を見て、若狭は小さい時から、仕事を手伝っていた。
若狭は弁護士になったあとも、折に触れて熊﨑との交流は続いた。
2020年に「政府の判断で検察幹部の定年延長を可能にする検察庁法改正案」が浮上する。これに対して、改正案に反対する検察OBの有志が、意見書を法務省に提出することになったのだ。熊﨑や大鶴、井内ら歴代の特捜部長や特捜部経験者は「検察権行使に政治的な影響が及ぶことが懸念される」として、再考を求めたのである。意見書で検察OBは、「検察の独立性、政治的中立性と、国民の信頼が損なわれかねない」「将来に禍根を残しかねない」として検察幹部の定年延長規定の撤回を主張したのである。
そのときも、若狭は熊﨑から「よろしく頼むよ」と声を掛けられて、二つ返事で引き受け、「検察OBの38人」の一人として意見書に名を連ねることになったのだ。
熊﨑は2014年から「火中の栗を拾う」覚悟でプロ野球のコミッショナーを2期務めた。「統一球問題」や「野球賭博問題」の対応にあたり、プロ野球の立て直しに尽力した。
しかし、その熊﨑も2022年5月に亡くなった。コロナ渦の中で突然の訃報だった。
若狭は今でもふと、亡くなる直前に聞いた、熊﨑の穏やかな声を思い出す。
「若狭、今度ゴルフでもやろうや」
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◼参考文献
司法大観「法務省の部」法曹会、1996年版
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、 2000年
若狭勝「参謀力」双葉社、2017年
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