当事者を置き去りにしたまま法律が作られ、営々と築き上げた人生が脅かされるとしたら…。外国人の永住資格を、これまでより容易に取り消せるようにした入管法の改定案。国会で可決、成立するまでの過程を取材して違和感を覚えずにはいられなかった。何が問題だったのか。検証したい。(元TBSテレビ社会部長 神田和則)
「横浜中華街の発展は、日本人と来日した中国人が力を合わせた結晶」
「私たちは見えない空気、感じません。法律も見えません…空気みたいなものです。空気が汚染されると初めて、あっ、自分の命が脅かされるなと感じます。僕は今、入管法の改正はまさに、何かおかしな空気になっているなと感じています」
5月30日、参議院法務委員会、「横浜華僑総会」顧問の曽徳深さん(84)が参考人として意見を述べた。
「開港後、この横浜に多くの中国人が渡来し、以来170年余にわたり、この地に生活の基盤を置いてきました。横浜中華街の今日の発展は、日本人と来日した中国人が力を合わせた結晶です」
父親が来日したのは大正8年(1919年)。曽さんは日中戦争のさなかに生まれた。終戦後、永住資格を得て、中華街で料理店を営むなどずっと横浜で暮らしてきた。
永住資格がある人は、23年末現在で89万人、在留外国人の4分の1以上を占める。原則10年以上日本に在留し、安定した収入があり、税金や社会保険料の滞納がないことなどを厳格に審査したうえで認められる。在留期間や就労の制限はないが、懲役1年以上の実刑判決が確定などの場合は強制退去となる。
改定案では、「在留カードの不携帯など入管法の義務に違反」、「故意に税金や社会保険料の支払いをしない」、「一定の罪で拘禁刑が確定(執行猶予、1年以下も対象)」によって、永住資格を取り消すことができる規定が設けられた。
曽さんは、終始、落ち着いた口調で語りかけた。
「在留資格取り消し拡大制度の導入は、日本政府が目指す共生社会の実現に逆行するばかりか…善良なる市民に深刻かつ憂慮すべき問題を惹起するものであります」
「永住者の生活、人権を脅かす重大事案と認識し…、(関連条項の)削除を強く求める」
置き去りにされた当事者の声
曽さんが入管法改定の動きを知ったのは5月12日。この時点で、すでに衆議院では審議が進んでいて、9日後には本会議で可決された。改定案は、当事者の声も聞かず、当事者に知らされることもなく成立に向けて動いていた。
この点は参議院の審議で焦点になった。
(6月6日 参議院法務委)
牧山弘恵参院議員
「制度によって影響を受ける直接の当事者の意見を聞かないままで成立に突き進んでいいとお考えでしょうか」
岸田首相
「検討過程では…有識者からの意見を当事者や関係者からのご意見に代わるものとして受け止め、永住者の在留資格につき一部の悪質な場合に取り消すことができるものとしつつ、その場合は原則として他の在留資格に変更することとして、永住者の定住性に十分配慮して慎重に立案をした」
岸田首相を補足する形で、出入国在留管理庁(入管庁)の丸山秀治次長は、「直接、関係者からヒアリングはしていない」としながら、有識者会議では「永住者の立場を踏まえた意見をいただいた」と答弁した。
曽さんが国会に出席したことで、ようやく当事者が声を上げた。政府は真摯に耳を傾けたのか。
(6月13日 参議院法務委)
福島瑞穂参院議員
「参考人質疑で曽さんが来られていますが、これ読まれました?」
小泉法相
「すみません、ちょっと通告いただいていなかったので、その部分についてのいま、読んだ記憶、ちょっと定かに申し上げられないんですけど」
福島瑞穂参院議員
「参考人質疑、ご覧になってないんですか?」
小泉法相
「報告は受けました。そして要約はしっかりと読み込みました。ただ中身について、この方のどういう陳述があったということまでは、ちょっといま定かに正確には申し上げられない」
福島瑞穂参院議員
「何か印象に残っていることは?」
小泉法相
「申し訳ありません。ちょっと事前の通告あれば、もう一度そこをしっかり読んだんですけれども…」
やりとりがあったのは、参議院法務委で改定案が可決される直前だ。法相の苦しい答弁ぶりを見る限り、当事者の声は最後まで無視されたと言わざるを得ない。
「立法事実」はあったのか
問題は当事者不在にとどまらない。
新しい法律を作ったり、法を改正したりする場合は、前提となる事実が示されなければならない。つまり「いま世の中ではこういう問題が起きている(立法事実)。だから解決するためには新たな法律や改正が必要になる」と説明して法案が提出、審議されるのが筋道だ。
国会審議で政府は、次のような「立法事実」を挙げた。
(1)2019年の世論調査で、一度永住許可をされた人が要件を満たさなくなった場合、取り消して、活動内容や在留期間に制限がある立場に変更する制度を設けることについて「賛成」が74.8%あった。
(2)7つの地方自治体の担当者から聞き取りをした結果、一部の自治体から永住許可の申請時にまとめて滞納分を支払うが、その後再び滞納する永住者がいるなどの声が上がっている。
これに対して議員から反論が相次いだ。
(1)については、「質問と選択肢が恣意的、誘導的」と批判された。確かに「永住許可の要件を満たさなくなった場合」というのは、問題がすでに発生していることが前提となった質問だ。その文脈で尋ねられれば、「問題があるのだから取り消しや在留資格の変更は必要だ」と答える人が多数派になるのは目に見えている。
(2)については、対象が全国の自治体のうちわずか7つしかないことに加え、「永住許可の申請時にということは、永住許可を持った人のことではない」と指摘された。しかも提出された資料の自治体名は黒塗りで、裏取りもできない。入管庁は衆議院法務委で、永住者が滞納しているなどと自治体から通報があった件数の統計はなく、滞納額も把握していないと答弁した。
それにしてもなぜ、こんな改定案が出てきたのか。
政府は、外国人労働者の受け入れを目的に、問題の多かった技能実習制度に代えて育成就労制度を創設し、今国会に法案を提出した。これに伴って「将来的には永住資格を持つ人の数が増えると予想されることから、永住許可制度の適正化が必要になる」と説明し、永住資格の取り消し制度を法案に盛り込んだとしている。
しかし、改定案に先立って技能実習制度のあり方などを議論した有識者会議の座長、田中明彦・国際協力機構(JICA)理事長は「永住者の在留資格の取り消しについて、議論はしておりません」(参議院法務委の参考人発言)と明言した。
改定案が出された事情について、「移住者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)の鳥井一平・共同代表理事は、参議院法務委で興味深い発言をしている。鳥井氏は「育成就労を口実に、永住資格の取り消しをどさくさ紛れに加えた」と批判し、次のような見方を示した。
「(永住資格取り消しは)唐突極まりない。育成就労となぜ一緒に議論しなければいけないのか。まったく普通に考えればつながらない。(外国人労働者の)受け入れを拡大すると、反対する人たちがいるので、それに対して何か言わなきゃいけない。それが永住の適正化。こんなひどい話はない。ある意味すごくバーター的な発想。反対の人たちはごく一部だが、声が大きい。(しかし)ヘイトスピーチのグループに日本の社会を委ねてはいけない、忖度をしてはいけない。永住資格の取り消し条項は、そういう不自然な経緯で出てきた」
「不当に重い不利益を課すこと」は差別になる恐れが…
国際人権法が専門の阿部浩己明治学院大教授に話を聞いた。
「日本国民が税金を納めなければ、督促状や口座の差し押さえという措置がとられるが、日本の国と強い結びつきのある永住者の場合も同じ対応で足りるはず。永住資格の取り消しにまで至れば、国籍がないことを理由に不当に重い不利益を課すことになる。そうなると、日本も批准している『自由権規約』という国際条約が規定する差別の禁止に抵触する恐れが大いにある」
さらに「『自由権規約』には、私生活への恣意的な干渉を禁止する規定があるが、永住者は日本の社会に定着しており、守らなければならない生活上の利益はとても大きい」と指摘。そのうえで、「恣意的であるかどうかは、永住資格を脅かしてでも守らなければならない国の具体的利益がどれだけあるかに関わる。在留カードの不携帯や軽微な犯罪程度で永住資格が取り消しとなれば、私生活への過度の干渉になり、この規定にも違反することになるのではないか」と述べた。
多くの疑問が解消されない中、華僑団体のほか、在日韓国人の「在日本大韓民国民団」、弁護士会、日本ペンクラブなどが反対や疑問の声を上げた。
国会審議で政府は「永住許可の取り消しは、許可後に要件を満たさなくなった一部の悪質な場合」と繰り返し、「うっかり在留カードの携帯を忘れたり、病気や失業で経済状態が悪化して税金が払えなかったりした場合は対象にしない」と答えざるを得なかった。
また、施行までに取り消しが想定される具体的な事例をガイドラインで示すとした。
であるならば、本来は、それを法律ではっきりと規定するべきだと思うが、参議院も与党などの賛成多数で改定案は可決、成立した。付帯決議には「すでに定住している永住者の利益を不当に侵害することのないよう…特に慎重な運用に努めること」などの文言が加えられた。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。