旧優生保護法のもと不妊手術を強制された人たちが起こした全国5つの裁判について、最高裁は統一判断を示すための審理を29日から始めます。裁判の最大の山場を前に、不妊手術を受けさせられ長年苦しんできた宮城県内に住む70代の原告の女性は、いま何を思うのか、取材しました。

「子どもを産み育てる」生き方を奪われた女性

およそ60年前に撮影された1枚の写真。徒競走の先頭を走っているのは飯塚淳子さん(仮名)です。このとき、中学3年生でした。

飯塚淳子さん(仮名):
「中学生らしいなという感じ。まだ子ども。(写真が)よく残ってたね、これしかないもんね」

飯塚さんはこの翌年、「旧優生保護法」に基づく不妊手術を強制されました。16歳にして、「子どもを産み育てる」という生き方を奪われたのです。

今は70代となりました。

飯塚淳子さん(仮名):
「普通に結婚して、子どもがいて、孫がいて、幸せな家庭。友だちのところに行くと、いつもうらやましいと思う。もう本当に旧優生保護法のことだけで、人生が終わりです。とても残念です」

「旧優生保護法」で残った“深い傷”

1948年から1996年まで施行されていた「旧優生保護法」。障害のある子どもを「不良な子孫」と規定し、「社会全体のため出生を防止すること」を目的としていた、今では誤った考え方の法律です。

この法律は、障害のある人などに対し、本人の同意なしに不妊手術を行うことを認めていました。

飯塚淳子さん(仮名):
「傷は今もあります(Q 深い傷か?)結構大きく。いくらか縮んではいるんでしょうけど」

写真が撮影された当時、飯塚さんは石巻市の親元を離れ、仙台市内にあった知的障害者施設「小松島学園」で生活していました。

施設の元職員の苦悩

当時の飯塚さんを知る、三宅光一さん(87)です。三宅さんは飯塚さんの写真見ながら当時のことを話してくれました。

三宅光一さん:
「そうそう、この子。きかねがったんだ~(気が強かった)、これ」

男子を担当する生活指導員として施設で働いていました。

三宅光一さん:
「性格は良かった。私は助けられた、この子に。女の子が言うこと聞かないと、『あいつさっぱり掃除しないから、何とかしてけろ』と言うと『はい』って」

小松島学園に当時在籍していた子どもたちは80人ほど。施設にはたびたび役所の職員が訪れ、子どもたちに不妊手術を受けさせるよう頼んできたと言います。

三宅光一さん:
「役所の人がしょっちゅう来る。『なんとか子どもを納得させろ』とか。私は子どもには言えなかったね。かわいそうで。泣きながら、『なんで私たちがお嫁になれないんだ』と言われるとどうもね。言えないんですよ、かわいそうで」

飯塚さんと施設のあった場所へ

施設があった場所はいま、グラウンドになっています。飯塚さんに案内してもらいました。

飯塚淳子さん(仮名):
「建物が女子棟がこっちにあって、男子棟がこっちで向かい合わせになっていた」

飯塚さんが施設で過ごしたのは、中学3年生の1年間。不妊手術を強制されたのは卒業後のことでした。

飯塚淳子さん(仮名):
「人生はもう帰ってこないので、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。こういうことさえなければ不幸にはならなかったと思う」

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