葛飾区のとある駅から歩いて数十分かかる木造アパートで火事がありました。焼け跡からは一体の焼死体が発見されました。それはかつて「兜町の風雲児」と呼ばれ、数百億円を動かしていたという中江滋樹氏の最期の姿でした。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

葛飾区の木造アパートで

東京・葛飾区、最寄り駅から徒歩20分以上かかる木造アパート2階で、2020年、火災が起きました。焼け跡から見つかったのはかつて「兜町の風雲児」と呼ばれた男の焼死体でした。
男の名は中江滋樹元会長(享年66・以下敬称略)。事件性はなく、タバコの火の不始末から火災は起きたとされています。

このトンネルの向こうの4万8000円のアパートに中江は住んでいました。

中江は有名人でした。『投資ジャーナル事件』を起こすまで株取引で数百億円の財をなし、兜町の風雲児と呼ばれていたものです。その中江が家賃4万8000円の木造アパートに住んでいたのは「意外」をもって世間に受けとめられました。

兜町の風雲児は子供の頃から風雲児だった

中江は1954年に滋賀県で生まれました。父親の職業は証券マンだったといいます。
その薫陶の元か、高校時代にはすでに株取引に精通し、短波ラジオで概況を常にチェックした上で、十円公衆電話で取引注文を入れていたと、かつてのクラスメートは語っています。

中江は1978年上京後すぐに『投資ジャーナル』を立ち上げました。

彼は高校を出ると「株投資で一旗揚げる」と、名古屋の投資顧問会社に就職しました。
彼はその会社で手書きガリ版刷りの情報レポートを発行します。その手書きレポートが「若いのに中江がいう銘柄は必ず上がる」と評判になるのに時間はかかりませんでした。
当初は大阪・北浜が主なる活動拠点でしたが、やがて上京し、ステージを兜町に移します。1978年に「投資ジャーナル社」を設立。当時まだ23歳でした。

手書きガリ版刷りの冊子から

中江推奨銘柄は「N銘柄」と言われるようになりました。投資家たちがこぞってそのN銘柄を知りたがったのです。
ネットもない、スマホもない当時、中江は『投資ジャーナル』『月刊投資家』などの情報誌を発行し、「絶対に儲かる」N銘柄と株式売買のテクニックを書きました。
投資家はこぞって中江雑誌を買い、中江の「投資サークル」に入りました。その費用は半年で30万円という高額なものながら、そこで推奨された銘柄を買うと、その銘柄は上がって儲かる、それが評判になる、だからますます投資ジャーナルは売れる、と、かりそめの正スパイラルが成立していたのです。
最初のうちは……。

現在では絶対にダメな「必ず儲かる」「資金が何倍に」などの売り文句がまだ規制されていませんでした。

中江は「2割利益が出て、それを10回続ければ元手が2倍になる」という独自の「ツーバイツー理論」なるメソッドをぶちあげ、関連会社の会員と巨額の金を集めました。
そして、あたかもその理論通りに投資ジャーナル関連株は儲かったのです。
最初のうちだけは……。

派手な交友関係とカネ

中江はインサイダー情報(当時はまだ規制が緩かったとされています)を得るために各界の要人たち(特に政治家)と派手な交友関係を結び、一部芸能人などとの浮名を流しました。その華やかな姿が彼のカリスマ性を上げた、という一面も否定できません。
一方「髭面の若い男が何やら勝手な理論を振り回している」と苦々しく思った古株の証券マンも多くいました。そうしたアンチに囲まれて、だんだん『N銘柄』の効力は失われていきます。『N銘柄』は、いつしか「上がる」どころか「危険だ」とされるようになっていました。

「中江がそろそろヤバい?」投資ジャーナル本社前にメディアが集まります。

そんな中、中江は大博打に出ます。1984年に「必ず上がる」と、とある化学メーカー株に巨額のカネを投じ、大勝負に出たのです。ところが、そこで中江は負けました。
以前より顧客から集めていた数百億円も返せず、そのまま中江は逮捕されました。

中江の逮捕時にはすごい報道陣が集まりました。世に言う『投資ジャーナル事件』です。

「騙すつもりはなかった」

裁判で中江は「騙すつもりはなかった」と主張しました。しかし、結果として金を失った顧客は収まりません。結局判決は詐欺罪で懲役6年。
じつはこの事件をキッカケにして「投資顧問」についてのさまざまな法整備はなされていったのです。

懲役を終え、海外や日本の住居を転々とした後、葛飾のアパートにたどり着いたといいます。

彼のことを「愛すべき悪党だった」という人がいます。
確かに彼は様々な経済詐欺師たちとは毛色が違うように感じます。最初から客を騙す気マンマンの、マルチやポンジスキームの詐欺師たちと同列ではなく、中江はいわば「派手なバクチ打ち」だったのでしょう。そして自分のバクチに酔っていた。
しかし最後の大博打で大負けし、結果として多数の客を裏切りました。「必ず儲かる」といわれた顧客にとってそれは詐欺と何ら変わりません。それが投資ジャーナル事件の本質だったように思えます。

焼け跡から「投資法」

享年66。木造アパートの焼け跡からは、中江手書きの株投資ノートと、チャート図が山のように見つかったといいます。
中江は令和のアパートで再起を目指していたのでしょう。
ネットで素人でも手軽に投資ができるようになった今、彼は何を考えて、どのような手書きチャートを書いていたのでしょうか。

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