フィリピンでは、ドゥテルテ前政権の下でいわゆる『麻薬戦争』と称する形で積極的な違法薬物対策が採られる一方、その背後では多数の容疑者が『超法規的』に殺される事案が相次いだとされており、人権団体などがその全容解明を求める動きをみせてきた。なお、フィリピン政府は超法規的に殺された容疑者が6,200人以上に及んだとの公式見解を示しているものの、人権団体などによる試算では数万人に及んだとの見方も示されており、両者の間には大きな乖離が生じている。
こうしたことから、国際刑事裁判所(ICC)は2018年に「人道に対する罪」を理由に予備調査を開始したため、当時のドゥテルテ政権はこの決定に反発するとともに、翌19年に脱退する事態に発展した。また、2022年の大統領選を経て発足したマルコス現政権も、ドゥテルテ氏の長女であるサラ氏を副大統領候補とするタッグを組む形で発足した経緯も影響してICC脱退を維持する姿勢をみせた。
しかし、マルコス政権が南シナ海問題や麻薬対策などの政権運営方針を巡って前政権からの大転換を図ったことを機に、マルコス氏とドゥテルテ氏の間にすきま風が吹き、ドゥテルテ氏がマルコス氏を公然と批判するなど蜜月ぶりが瓦解した。
さらに、マルコス氏の支持者や側近などが中心となる形で憲法改正を目指す動きを活発化させたほか、マルコス氏も「新フィリピン」と称する政治運動を立ち上げ、ドゥテルテ氏やサラ氏が一連の動きに反発を強めるなど対立の動きが鮮明になった。
結果、今年6月にサラ氏は副大統領と兼務した教育相を突如辞任し、直後に実施されたマルコス氏の施政方針演説を欠席するなど、両者(両家)の対立が深刻化している様子がうかがえた。その後も、来年に実施予定の中間選挙(統一国政・地方選)に際してドゥテルテ氏のほか、サラ氏の兄(パオロ下院議員)、弟(セバスチャン氏)が上院選に出馬し、現在多数派を占めるマルコス派との全面対決を宣言する動きをみせた。
その一方、マルコス政権はドゥテルテ氏の有力支持団体である新興宗教(イエス・キリストの王国)への強制捜査に動くとともに、ドゥテルテ氏と関係が深い同団体の創設者であるキボロイ氏を児童虐待や人身売買などの容疑で逮捕するなど、対立の一段の先鋭化に繋がる動きがみられた。
しかし、サラ氏はその後もマルコス氏との将来的な選挙協力の可能性を否定するなど姿勢を硬化させる一方、ドゥテルテ氏は自身の政治集会においてマルコス氏やその政権運営を誉めるなど態度を一変させている。そして、ドゥテルテ氏はサラ氏の次期大統領選への出馬に反対する考えをみせるなど、その真意を測りあぐねる動きをみせている。この背景には、上述のようにドゥテルテ前政権による麻薬戦争に関連してICCがドゥテルテ氏に対する逮捕状請求を模索するなか、マルコス政権が対立を機にその執行を容認しかねないとの見方が出ていることが影響しているとされる。
他方、麻薬戦争を巡っては、今月11日に議会下院で開かれた薬物犯罪や違法オンラインカジノに関する特別公聴会において元国家警察大佐(ロイナ・ガルマ)が行った証言をきっかけにあらためて注目が集まっている。ガルマ氏の証言に拠れば、ドゥテルテ氏がダバオ市長であった際に実施した麻薬捜査を巡る超法規的殺人(ダバオ方式)を全国に広げるよう要請を受けるとともに、ドゥテルテ氏とその側近であったボン・ゴー上院議員がその促進を図るべく報奨金の支払いや資金援助、捜査費用の払い戻しなどを主導したとしている。なお、ガルマ氏はドゥテルテ政権下で慈善宝くじ事務局(PSCO)事務局長を務めたほか、ガルマ氏自身にも局員の殺害に関与した容疑が掛けられているが、公聴会において涙ながらに証言を行ったとされる。
これを受けて、28日に議会上院の公聴会が開催され、参考人としてドゥテルテ氏が出席して本件に関して初めて証言を行った。ドゥテルテ氏は麻薬戦争について「多くの人が死んだがすべてが犯罪者」、「国のためにやるべきことをやった」、「謝罪も言い訳もしない」と述べる一方、「人々を殺すことが目的でなく罪のない人を守ることが目的だ」とその適切性を主張した。その上で、「命令を遂行した警官に責任はなく、問題があるならば自身を刑事訴追して投獄すべき」、「残念なことに薬物犯罪は再び増えている」と述べるなど、その必要性をあらためて強調する姿勢をみせた。
なお、上述ようにマルコス政権はICC脱退を継続するとともに、再加盟に慎重な姿勢をみせており、その背景には来年5月に実施予定の中間選挙を巡る政治的な思惑が影響している。ドゥテルテ氏は来年の中間選挙でダバオ市長選に再挑戦する意向をみせる一方、上述のようにサラ氏はマルコス政権への批判を強めており、仮にICCへの再加盟に動けば捜査協力に応じる必要があり、結果的にサラ氏の政権批判の動きに火を点けることに繋がりかねない。そうしたドゥテルテ氏、マルコス氏双方の思惑がこの問題の前進を阻む一因になっているとみられ、政局を巡る動きも事態のこう着化を招くことが予想される。
フィリピンにおいては、足下のインフレ鈍化を受けて中銀が今月17日の定例会合で2会合連続の利下げに動き、先行きも一段の利下げに含みを持たせるなどハト派姿勢を強める考えをみせている。ただし、足下の国際金融市場では米FRB(連邦準備制度理事会)の利下げを受けた米ドル安の動きが一巡するとともに、一転して米ドル高の動きが再燃するなかでペソ相場は調整の動きを強めており、一段の利下げに向けたハードルとなる可能性も高まっている。政局を巡る懸念がペソ安圧力を増幅させる可能性も懸念されるなか、マルコス政権による問題への対応とその行方に注意を払う必要性が高まっていると判断できる。
(※情報提供、記事執筆:第一生命経済研究所 経済調査部 主席エコノミスト 西濵徹)
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