左:私の声を聞いて、テントの部屋から出てきた桂さん(仮名)/右:荒川の歴史に残る7回の洪水を記録した看板

<川辺でテント生活を営むホームレスは、いつ台風や大雨の被害に遭うか分からない野外生活を送っている。それはある意味で「冒険」。在日中国人ジャーナリスト、趙海成氏による連載ルポ第3話>

※ルポ第2話:「自由に生きたかった」アルミ缶を売り、生計を立てる荒川のホームレスたち より続く


一昨日の夜から昨日の午前にかけて、東京では激しい雨が降った。そこで私は今朝、荒川の川辺に住む桂さん(仮名)の様子を見に行った。(編集部注:この第3話は2022年夏の出来事を扱ったものです)

「昨日の豪雨、大丈夫でしたか?」

「まあね。砕石のところで水は止まったよ」

やはり、雨が上がった後の川を見ると、岸辺の石が泥だらけになっていた。

桂さんが経験した嵐は数知れず、昨日の雨は彼にとってそれほど大したことではなかったのかもしれない。

桂さんは正真正銘の荒川河畔の「先住民」だ。長年ここに住んでいるだけでなく、荒川の2度の大洪水を身をもって経験したからだ。最初は1958年の狩野川台風で、桂さんは当時6歳だった。

その日、彼は荒川へ釣りに行こうとしていた。堤防の上に登ってみると、呆然とした。目の前には驚くほど広々とした川面が広がっていたという。最大風速70メートル以上を記録する「カテゴリー5」のハリケーンと洪水は、1269人(行方不明者含む)の命を奪った。

2度目は2019年、台風19号が襲来した時だ。桂さんは荒川沿いの「小さな森」の中にいた。川が上昇し森のほうに向かって流れてくるのを見て、彼は慌てて布団を抱え、堤防の方向に走った。彼と一緒に難を逃れたのは4人のホームレスだった。

その洪水によって、桂さんは家財のほとんどを失い、残ったのはサーフボード2つだけだった。しかし、洪水が引いた後、テントを張るための大きなビニールシートを取り戻した。大きな柳に遮られたために、流されずに済んだのだ。

桂さんはそれを木の幹から外してきれいに拭いた。数日後には川沿いの緑の森に、青い「別荘」が現れた。

桂さんは言った。

「私はホームレスになったその日から、この選択を人生の冒険としてきた」

金持ちには得られない、貧乏人の「冒険」の成果

このような、いつ洪水に遭遇するかもしれない野外生活の「冒険」と、富豪たちが刺激を求め、自家用の豪華な船で海に繰り出す「冒険」とでは、どのような違いがあるだろうか。

これについて桂さんは、このように解釈している。

「貧乏人の冒険は金持ちの探検とは比べものにならない。貧乏人は生活範囲が狭く、条件が整っていないため、何をするにも慎重に行動し、自分の力に見合った範囲で行わなければならない。しかし金持ちは飛行機や船、高価な通信設備を持っている。行きたい場所に自由に行き、思いのままに振る舞うことができる。

私は前者として、自分の持っている条件に基づいて、できることをするしかない。冒険もそうだ。しかし私の冒険では、金持ちには絶対に得られないものを手に入れられることもある。例えば、私たちが知り合えたことは冒険の成果だ。

あなたはあの日、岸から離れ、水がなくて弱っていたカメを拾い、川に返してやりたいと思った。一番近い道として私の家を通らなければならず、私は微笑んであなたに『どうぞ』と言った。あなたは私が親切だと思って、戻ってくると私と話をして、最終的に私たちは友達になった。冒険が私たちの縁を繋げたのだ。

このように、人は誰でも、他の人に対して親切にすると、友好的な贈り物が返ってくる。あの時、私があなたを通さなかったら、あなたは別の道を探して川に行き、戻ってきて私に話しかけてくることはない。あなたは私と通行人のようにすれ違っただけだっただろう。荒川の川辺での私たちの出会い、そして私たちが友達になって得た喜びは、お金持ちには体験できない」

左:台風が襲来する中、防災について相談する桂さんと斉藤さん(仮名)/右:桂さんはまず自分の高級自転車を安全な場所に移動させる

助け合い人生を切り開く、そんな風潮がなくなった

桂さんと斉藤さん(仮名)の付き合いには、称賛すべき良い話がある。

2年前のある日、桂さんは荒川を上流に2~3キロ行った戸田橋まで、ホームレスの友人に会いに行き、そこで斉藤さんと知り合った。斉藤さんは当時、戸田橋の下でダンボール箱で生活していた。

桂さんはそれがあまりにも安全ではないと思い、斉藤さんにこう言った。「私の住む新荒川大橋のほうに引っ越してきてください。丈夫なテント小屋を建ててあげるから」

数日後、斉藤さんは本当に引っ越してきて、桂さんが建てた新しい家に住み始めたのだ。その後、彼らは兄弟のように親しくなった。

桂さんはこう話す。

「私が子供の頃は、何か困ったことがあれば、近所の人同士で助け合った。今はそんな風潮がなくなった。だから、今の若者にはもっと冒険が必要だ」

生活の中で勇敢に冒険し、冒険の中で懸命に生を求め、生を求める中で和やかに助け合い、共に助け合いながら新たな人生を切り開く!

人生はこうあるべきだ。桂さんは、まさにそれをやり遂げている。

桂さんと話をするだけで、私はいつも学びを得ていることに気づいた。

前に一緒に食事をしたとき、今の日本人は以前ほど礼儀正しくない、と私が愚痴をこぼしたことがある。ランニングをするとき、向こうから走ってきた人に私は挨拶をするのだが、いつも相手にしてくれない人がいる。どうして?

桂さんはこのように話した。

「人は走るとき、呼吸とペースを整えることに集中しなければなりません。この状態では、他のものに邪魔されたくないものです。それが相手があなたに返事しない理由かもしれない。お互いがただ散歩しているときだったら、挨拶をすれば、きっと返事をしてくれますよ」

ありがとう桂さん! また一つ勉強になりました。

新荒川大橋の近くにある鉄道橋の下で、救助隊員が救助訓練を行っていた

死にやすい橋を選ぶより、生きにくい道に戻ってほしい

ところで、荒川に掛かる新荒川大橋について、桂さんは私に、外国人にはあまり知られていない話を教えてくれた。

私たちの目の前にそびえる雄大な橋は、実は自殺者の多い場所でもある。橋は高く、水も深い(橋の中央の川の水は少なくとも10メートルの深さがある)ため、石を体に縛って飛び降りれば、すぐに姿を消すことができるという。助けようと思っても難しく、とても「死にやすい」場所なのだろう。

私は何度もこの橋の上を通ったことがあるが、橋を渡る人は皆、慌ただしく行ったり来たりしている。私だけがぼんやりとキョロキョロしていて、時々立ち止まって写真を撮ったりしていた。

聞いたところによると、お節介好きなドライバーは車で橋の中央を通る際、窓の外で誰かがうろうろしているのを見つけたら、警察に通報することがあるそうだ。

思い詰めて新荒川大橋で命を絶とうとする人に、私は言いたい、死にやすい橋を選ぶより、生きにくい道に戻ってきてほしい。人は死んだら二度と生き返らないが、生きている限り、火を浴びて生き返る(中国語で「浴火重生」という)、つまり逆境から立ち直り、再び輝くことができるのだから。

桂さんが10年前にホームレスになったのは一つの冒険だったと言ったが、考えてみれば、私が今ホームレスの問題を取り上げるのも一種の冒険ではないか。

私たちの骨の中には冒険精神が宿っており、血統の中にも遠方の少数民族の遺伝子が含まれているのかもしれない。

私たちは3人とも鼻筋が高い(左から、桂さん、筆者、斎藤さん)

シルクロードの各民族の血統について研究したことがある私の姉から、上の3人の写真を見て、連絡があった。

「今度の取材の時、鼻の高いこの2人の先祖3代はどこの人か、アイヌや沖縄の人じゃないかと聞いてみてほしい」と言うのだ。

私にはそれを聞く勇気はない。

彼らに、「あなたは、私たちのことを記録し取材してもまだ足りないのか、祖先3代までも調べ尽くすつもりか?」と言われるのが怖いのだ。


※ルポ第4話(9月18日公開予定)に続く
※ルポ第2話はこちら:「自由に生きたかった」アルミ缶を売り、生計を立てる荒川のホームレスたち

(編集協力:中川弘子)


[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した――在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。

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