PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE

<異国の戦場で日本人が見た現実...ウクライナに留まる彼らの姿を追う>

最初にウクライナを訪れたのは、戦争が始まった直後の2022年4月だった。その後、この2年余りの間に計5回ウクライナとその周辺国に行き、戦争の最前線である東部地域をメインに、そこに暮らすウクライナの人々やボランティア、兵士などの取材を続けてきた。

初めてウクライナを訪れた時は、現地の状況がほとんど分からず、取材のコネもなかった。それでもあえて戦場となっている国に飛び込んだのは、SNSで多くの情報が発信されているとはいえ、実際に現地に行ってみないと分からないという思いが強かったからだ。

1回目の入国では、ポーランドからバスで西部リビウに着いた翌日、ミサイルが駅周辺に落ちた。すぐに現場に駆け付けようとすると、その場で警察官に職務質問をされてそのまま警察署に連行された。リビウへのミサイル攻撃は珍しいため警戒を強めていて、一般人がSNSに写真や動画を投稿するのも取り締まっているという。

ウクライナの全体状況を把握した後、友人の香港人カメラマンが東部ハルキウ(ハリコフ)にいると知り、直接現地に行って、取材の手法や同行が可能かどうか聞くことにした。

ハルキウに着いて街の状況を確認しようと中心部を撮影して歩いていると、現地住民が不審に思ったのか、突然騒ぎ出して警察を呼んだ。

それまでの1週間程度の滞在で日本と日本人への好意的な雰囲気は感じていた。だから警察が来ても問題ないとタカをくくっていたのだが、身分証の照会や荷物検査が終わると、後ろ手に縛られ顔に袋をかぶせられてからテープでぐるぐる巻きにされ、パトカーに放り込まれた。

その後、警察署に連れて行かれ、身体の拘束を解かれた。英語を話せる若い警官が到着して「住民たちはとてもナーバスになっていて、写真なんか撮っているとスパイだと勘違いされるぞ」と詰問された。解放されたのは拘束から5時間後だった。

最初の1週間で取材したい場所や、取材内容が限定されてしまい、予定変更を余儀なくされた。結局この後はブチャなどキーウ州の郊外の取材をした後、ウクライナ避難民がいる隣国モルドバ、ポーランドを回り、多くの未練だけを残して帰国した。

再度ウクライナへ取材に行こうと思ったのは、4カ月後の22年8月。戦争が始まって半年近くたち、4月の取材で会った人も含め多くの日本人が現地に滞在していた。その人たちにまた行くと連絡してみると、つながりのある人や取材先を紹介してくれた。

この時に気付いたのが、戦地ウクライナにいる日本人が予想以上に多種多様なことだった。言葉の壁や資金の問題、生活で苦労をしても、戦時下のウクライナで少しでも人のためになりたい、と思う人がいる。自分の中で、「ウクライナの日本人」が1つの取材テーマになった。

キーウに30年暮らして

1回目の渡航の時、ウクライナの支援グループを通じて紹介されたのが、日本人女性のKさんだった。ウクライナ人男性との結婚を機に1995年から30年近く、首都キーウ(キエフ)の中心部で暮らしている。

戦争が始まった当初、Kさんがとにかく困ったのが食料不足だった。ミサイルの警報サイレンが鳴ると、スーパーや商店は全て閉まり、客も全て外へ追い出される。どの店も1日数時間しか営業できない状態で、行列に並ばなくてはいけない。食料が足りず、夫と愛犬で少ない食事を分け合った。

キーウに暮らして30年近くになるKさんと愛犬 COURTESY OF K

日本人のKさんは、もちろん逃げようと思えば逃げられた。しかし出国できない夫と犬を残して日本に行くことは考えられなかった。

「夫の支えと私自身の努力で、ウクライナ語とロシア語を覚え、日本よりも長く生活をしてきた」と、Kさんは言う。「ウクライナは私にとっては第2の故郷であり、日本での生活以上に重要になっています」

Kさんの目に映る、戦争開始後のウクライナ人の最大の変化はウクライナ語を話す人がとにかく増えたことだ。侵攻以前は多くがロシア語をしゃべっていて、むしろウクライナ語をしゃべったり勉強している人は「変わった人」という扱いを受けていた。ウクライナ語をほとんど話してこなかった高齢者は今、ロシア語でロシア批判をしている。

「300年以上にわたってロシアはウクライナを敵視し、圧迫してきました。この長い歴史を振り返ると、仲の良い兄弟でも、友好的な隣国でもないのです」と、Kさんは言う。

ピカチュウ姿で人道支援

ウクライナを出国した後、ポーランド南部クラクフの同じホテルで偶然出会ったのが、ウクライナ東部に向かうところだった中條秀人さんだ。中條さんは22年4月にウクライナ入りして以来、約2年間にわたって人道支援活動を続けている。ピカチュウの着ぐるみを着て活動していることで知られ、現地での呼び名は「ピカ」だ。

着ぐるみを着るようになったのは、ウクライナでピカチュウは誰でも知っているキャラクターと聞いたから。最初はとにかく不審がられ、戦時中なのに不謹慎とかばかにしていると言われた。ただ、子供たちはとても喜び、次第に親や周りの大人たちも受け入れてくれるようになった。

子供たちにピカチュウの着ぐるみを着せて交流する中條さん KOSHIRO KOMINE

日本で建築関係の会社を経営し、安定した暮らしをしていた中條さんがウクライナに来たのは、幼少期の虐待によるトラウマをスポーツで乗り越えた自分の体験を、戦争で心と体に傷を負った子供たちに伝えたいという思いからだ。

まず西部ウジホロドで避難民支援をした後、支援物資を届けるキャラバンを結成してハルキウ州、ドンバス地方、ヘルソン州など前線地域を回り、22年8月には一般社団法人「ウスミシュカ(ウクライナ語で笑顔)」を設立。避難施設の運営など現地に寄り添った活動を始めた。そこでは避難先で生活するのが難しい障がい者など、社会的弱者の人々も受け入れている。

前線地域で人道支援活動を手伝ってくれているウクライナ人の学生から、「僕もピカのように人に与え続ける人になりたい」と声をかけられた。「憎しみや恨みの連鎖ではなく、恩返し、思いやりや優しさの連鎖になっていることがうれしい」と、中條さんは言う。

雇用を増やすため起業

2回目にウクライナを訪れた22年8月、東京都出身、33歳の伊藤翔さんとリビウで会った。彼とは最初に訪問した4月の時点から連絡を取り合っており、8月に飲食店をオープンするというので訪ねたのだ。

開戦当時、ジョージアに住んでいた伊藤さんは、侵攻開始4日後にはポーランドのワルシャワに行き、道路事情も分からないなか、人や物資を乗せることを想定して四輪駆動車を購入。その間、SNSで現地の情報を収集し、ワルシャワ在住でサポートを申し出てくれたジョージア人と車でウクライナへと向かった。

リビウなどでおにぎり屋や抹茶カフェなどを経営している伊藤さん(左) COURTESY OF SHO ITO

リビウで避難民のニーズを把握した後、一度ポーランドに戻り、ウクライナでは手に入らなくなった防寒具を大量に購入して再入国。ホテルを手配して子供やお年寄りを優先して滞在させ、日本への避難を希望するウクライナ人のビザ申請、保証人探し、航空券の手配、日本での滞在費の工面などをサポートした。

もともとは自己資金を使い切ったらジョージアに戻るつもりだった。しかし、多くの人と知り合い、彼らを置いて帰る気にはなれず、ただの支援ではなく雇用を増やすためにウクライナで起業することを決めた。

伊藤さんはリビウなどでおにぎり屋や抹茶カフェなど飲食店を数店舗経営しているが、多くの人たちに助けられていると感じる。新店舗でトラブルがあった時には、ポーランドにいる日本人の友人が飛んできて手伝ってくれた。「ウクライナに助けに来たつもりが、友人にいつも助けられています」と、伊藤さんは言う。

夜明け前の待ち伏せ攻撃

ウクライナ戦争では、複数の日本人が義勇兵としてウクライナ軍と行動を共にしている。戦争初期の激戦地ハルキウ州イジュームの最前線から約10キロ離れた場所で22年9月に会ったのが、富岡さん(仮名)だった。

富岡さんは20代半ば、関東出身、前職は建築関係で22年5月にウクライナ入りした。自衛隊や他国の軍隊の経歴はなくウクライナ語やロシア語も分からず、ただウラジーミル・プーチン大統領とロシア軍の非道を許せないと感じたのが理由だった。

富岡さんはプーチンやロシア軍への怒りから義勇兵になった KOSHIRO KOMINE

ポーランドからバスでウクライナへ。兵士の採用事情も分からないまま、バスを乗り継ぎ中部の都市ドニプロまで行き、情報収集した。SNSでウクライナに滞在する義勇兵志望の日本人とつながり、その後入隊を模索している外国人グループに合流。領土防衛隊に属する部隊に入隊して、イジューム南部、リマン近郊で任務に就いた。

入隊から約7カ月後には、当初いたメンバーは司令官、司令官補佐と富岡さんの3人だけになり、部隊で一番の古株になっていた。その間に仲間は戦死したか、負傷したか、何らかの理由で除隊していった。兵士の間で「スーサイド(自殺)ポジション」と呼ばれる、地形的に明らかに危険な塹壕でロシア軍の砲撃にひたすら耐えるだけの任務もあった。その過酷さに、思い描く戦争とのギャップを感じて帰国していった兵士もいた。

22年12月、2分隊(12人)で配置場所に向かう途中にロシア兵に襲撃をされた時は本当に死ぬと思った。夜明け前、歩兵戦闘車に乗って塹壕手前まで行き、武器や荷物と食料や水を降ろして塹壕に向けて歩き始めた途端、すさまじい数の銃弾が自分たちに向かってきた。薄暗い中でこちらからは敵がどこにいるかも分からず、応戦する余裕もない。

地面に身を伏せながら、目だけで辺りを確認すると近くに小さいくぼみを発見した。ウクライナの土は水はけが悪く粘着質で、車両が通った後はわだちがそのまま深い溝になり、冬になるとそのまま凍る。

そのくぼみまで匍匐(ほふく)前進で向かったが、頭上から絶えず銃弾が風を切る音が聞こえ、ときおり曳光(えいこう)弾もはっきり見えた。富岡さんが飛び込んだくぼみは深さ20センチ足らずで、体の一部が地面から出ている状態だ。「とにかく早く終わってくれ、ミサイルは飛んでくるな」と念じながら、じっとしていた。

数分後に銃声が鳴りやんだ後、とにかく全員でその場をすぐに去り、配置場所の塹壕へと向かった。銃撃戦は珍しくないが、待ち伏せは初めてだった。「今にして思うと、あの状況で負傷者がゼロというのは奇跡に近い」と、富岡さんは振り返る。

23年2月に一時帰国した後、3月に再度ウクライナ入りし、第204独立領土防衛大隊の砲兵として入隊した。後方からAGS‒17(グレネードランチャー)を撃つ任務のため、いくらか危険は減った。

「これまで何度も死にかけました。一緒に戦った多くの仲間が負傷、戦死しています。その分生き残っている仲間との絆が強くなり、個人的な思いで途中でやめるわけにはいかない」と、富岡さんは言う。「兵士として戦いに来たので、雑音は気にせずにやるべきことをやるだけです」

元福島原発作業員の兵士

兵庫県神戸市出身で、23年1月にウクライナ入りした日本人義勇兵の箕作さん(仮名)は、複雑な経歴の持ち主だ。

子供の頃に阪神・淡路大震災を経験し、箕作さんの家は経済的な苦労を強いられた。高校と大学をいずれも中退し、自衛隊に入隊。退官後は法律事務所で働き、法律資格を取ってその職に従事していたが、業務上のトラブルに巻き込まれ、仕事を辞めて上京する。その後は飲食店の経営を始め、持ち家も所有。生活に不自由はなかった。

「少しでも現地の改善の力になりたい」と語る義勇兵の箕作さん KOSHIRO KOMINE

ウクライナに来たのは、ウクライナで兵士として戦っていた、20代の頃からのアゼルバイジャン人の友人に会うためだった。ジョージアを旅行した時、日本の文化に興味があり日本語を勉強していた彼と偶然会い、意気投合した。

ナゴルノ・カラバフの問題や、ロシア軍に家族や友人が多く殺された話を聞いていたので、彼がロシアに対して強い怒りを持っていることを知っていた。彼の心配だけでなく、実際に何が起きているのかを知るためにウクライナ入りし、話を聞いているうちに、ウクライナ人のために戦いたいと思うようになった。

箕作さんは東日本大震災後、福島第一原発の作業員として働いたこともある。福島には約20カ月間滞在して、福島第一原発や南相馬で除染処理の仕事をした。「少しでも現地の改善の力になりたいと思ったのです」と、箕作さんは言う。ウクライナに来たのも同じ理由からだ。

ウクライナでは歩兵として入隊できる部隊を探し、外国人兵士も多数所属しているブラザーフッド大隊(編集部注:ドンバス紛争の退役兵や戦闘未経験の兵士らで構成された部隊)に入隊した。それでも人種間のトラブルや兵士への扱い方など入隊してみないと分からないことが多く、その後は外国人義勇兵が多くいる別の部隊に入隊し直し、ドンバス地方の前線で戦っている。

<記事の続き>
連載第2回:ほっとして隣を見たら「顔が半分ない死体」が...今も「戦地ウクライナ」に残る日本人たち、それぞれの物語
*連載第3回は6月7日公開予定です。

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