今回のヒーローはパリパラリンピック™、女子砲丸投げ4位・齋藤由希子選手。夢の舞台の2年前、長女を出産。母としてアスリートとして、もがき苦しみながらも笑顔で突き進んだ不屈の魂に迫ります。

砲丸投げとの出会いは?

パラ陸上砲丸投げ 齋藤由希子選手:
「これが砲丸投げで使う砲丸です。4kgあります。 片手で持ってクライド投法と呼ばれるステップをして投げています。
(Q、練習は今どれぐらいしていますか?) ゼロです。気持ちはしっかり切れています。切れているのでやめるなら今なんですけど。 たぶん(競技に)戻ってきます」

宮城、そして日本が誇る、砲丸投げの第一人者、齋藤由希子選手。生まれつき左腕の肘から先がなかった彼女ですが、体を動かすことは大好きだったそうです。

砲丸投げとの出会いは気仙沼中学校。指導者にも恵まれメキメキと実力をあげていきました。健常者と同じ練習や試合を行い中学3年生ではキャプテンに選ばれ、県代表としてジュニアオリンピックにも出場しました。

2019年の齋藤由希子選手:
「互角にというか互角以上に戦っているというのが、言わないけど、ちょっとしたプライド。鼻が高くなっているみたいな」

高校3年生、生活のすべてを変えた「あの日」

地元気仙沼市に甚大な被害をもたらした東日本大震災。齋藤選手は高校3年生を迎えようとしている大事な時期にあの日を体験しました。

2019年の齋藤由希子選手:
「校舎内にいて部活動のウォーミングアップ中だった。引き波や津波が来る様子を(校舎の)高い位置から見ていた。坂を人が上の方に登っていくのに“津波来ているよ”と叫びながら、みんなで必死に呼び掛けていたのは覚えています。これがどういうことなのかを理解できないまま、いろんなことが次々と起こっていたんですけど、50代の男性の先生は津波が来る様子を見てずっと泣いていた。その後の生活にどういう影響をもたらすのか、大人はわかっていた」

あの日の津波は自宅も飲み込み生活の全てをかえました。

半年間の避難所暮らしは、間近に控えたインターハイ予選にも影響を及ぼしました。

震災を機に決意、「あえて笑顔でいる」

当時避難していた気仙沼総合体育館の駐車場で話を聞きました。

2019年の齋藤由希子選手:
「傾斜がついているじゃないですか ちょうど。車に人が乗ってないところを見つけて、奥のほうであの傾斜に向かって投げていました。全国大会を目指す中で、ほかの選手はトレーニングできる環境かもしれないと考えるのがつらかった」

避難所生活で体重と筋力が落ち、全国大会出場を逃しましたが、震災を機にある決意をするきっかけとなりました。

齋藤由希子選手:
「笑顔でいちゃいけないタイミングって震災の時くらいだけだった。 震災の時も大変な思いをしていても、人々に必要なのものは笑顔だった。 “あえて笑顔でいる”ことで周りもハッピーになってくれたらうれしい。笑顔を大事にしていきたいと決めたのは震災前後」

仙台大進学後はアスリートとして成長。当時の世界記録を塗り替え、パラリンピック出場も夢ではなくなりました。

試練が…、やり投げに転向するも

しかし、彼女のクラスは過去3大会、種目から外れ、一時はやり投げに転向してまで東京オリンピック™を目指しますが、ケガに悩まされ、夢の舞台には立てませんでした。

齋藤由希子選手:
「東京大会には出たいと思っていたし、それに出ることが競技人生の1番の目標だった。それが叶わなかった時に“もういいかな”って。もう十分痛い思いをして怪我をしながら頑張ったかなって。種目を変えてまで頑張ったかなって思えたのは正直な感想です」

折れかけた心に再び火を灯したのが、パリ大会での砲丸投げ復活の決定です。

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