県外で活躍する青森県民を紹介するターニングポイント。人生の転機となったそのとき、どのような思いや決意があったのか。第98回のストーリーは、五所川原市出身で鍼灸師の木下暢子。
福岡県福岡市にある鍼灸院「ATAホリスティックケアラボ」。木下はここを夫婦で経営。鍼灸師として活躍している。
小学生からバスケットボールに打ち込む
木下は小学生の頃からバスケットボールに打ち込んでいた。
木下暢子さん
「身長が171㎝あるのでバスケットがいいなと思って、やり始めたらハマっちゃいました」
しかしバスケットボールを一生懸命やればやるほど、思いもよらないケガに見舞われてしまう。
度重なるケガで感じた治療の大切さ
木下暢子さん
「バスケットボールのために高校に入ったので、バスケットボール漬けの生活を3年間送るっていう気持ちでいたんですけど、1年生の段階で大きなケガしてしまって、さらに治ってから、また同じケガを逆の足にしてるので」
治療の大切さを身にしみて感じながらも、高校卒業後は上京して就職することを優先。羽田空港で保安検査の仕事に就いた。
木下暢子さん
「当時私がいた時に、全日空機のハイジャックが起きたりした時期だったので、とにかく厳しくなった時期でした」
羽田で5年働いた後、上司の紹介で整骨院の受付の仕事に就く。
受付をしながら多くの患者さんを目の当たりにした木下は、高校時代ケガで悩んだことを思い出し、この人たちの気持ちを一番理解できるのは自分ではないかと、鍼灸師を目指すことを思い立つ。
鍼灸師として妻・母として 人生のはじまり
木下暢子さん
「鍼灸師の専門学校に行くのを迷ってたんですね。値段も高いし、3年間だし、30歳だし…と思って。接骨院の時の社長が“やるかやらないかで迷ってないで、やっちゃいなよ”という感じの社長だったので、その言葉を聞いて“そうだ、やっちゃおう”と思って…」
さらに同じ時期に、妻となり母となった木下。
木下暢子さん
「専門学校3年の間に、結婚と出産が重なって、妊婦のまま学校に通ってました。まあ、楽しかったですね、今思えば」
パワフルな木下は、無事に学校を卒業。鍼灸師の資格は取得したものの、子どもが小さかったこともあり、子連れで整骨院に出勤し主に事務作業を行っていた。
木下暢子さん
「事務所に子どもを連れて行って、抱っこしながらパソコン打って。勤務していた整骨院の社長が、女性が働きやすい環境を作りたいって方だったので、すごく助かりました」
その後、出張で鍼灸師として老人施設を回っていた頃、コロナ禍になり、いろいろな場所へ入ることが禁じられ始めた。そこで改めて働き方を夫婦で話し合った。
木下暢子さん
「東京にいる意味を2人で考え始め出して。だったら、他の所に行ってみないって言って、福岡に決めました」
夫の出身地、福岡で、今の鍼灸院を開業。高校時代にケガをした経験を生かし、自然治癒を大切にした東洋医学を中心に、ケガや病気で悩める人のケアをしている。
夫 木下洋輔さん
「(暢子さんは)青森・東京・福岡と渡って来ただけあって、誰とでもコミュニケーションが取れるので場が明るくなるというか、そういう所が魅力の一つかなと思います」
木下暢子さん
「意外と、鍼したりマッサージしたりすると痛みが消えたりするので、そういう所が広まっていければな。けっぱれ魂を持ちながら世界に鍼灸を広め、青森にも治療しにいけたらいいなと考えています」
青森テレビ「わっち!!」月~金曜夕方4時25分
「TurningPoint」2024年10月22日(火)放送回より
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