特集です。パラサーフィンの国内第一人者として知られる岡山市の藤原智貴選手。11月にアメリカでの世界選手権を控えるなか、藤原選手の思いとパラサーフィンの魅力を紹介します。

藤原選手が並みのサーファーと一味違うのは。沖に連れ出し波へと押し出すピッチャー。

そして荒波にもまれる彼を受け止め再び、沖へと投げ返すキャッチャーという最高の仲間がいるからです。

始まりは2009年でした。

34歳で大けが・1年半の入院生活「考えていたのは海のこと」

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「20~30センチしか水深がなかった。ちょうど砂がついている所。(転倒して)頭を打って、まさか首の骨が折れているとか分からなかったので。全身が全く動かなかったです。そのまま溺れてしまって意識を失った。どうやってひっくり返ったのかは分からない。多分、分波がひっくり返してくれたと思う」

34歳。生活は一変しました。胸の半分から下は動かず両手の握力も失いました。それでも、砂浜には彼を慕う仲間が連れて行ってくれます。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「関西人喋らなかったら呼吸できないって聞いたんですけど、こっからはいくら僕でも」

1年半の入院生活。考えていたのは海のことでした。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「頭がおかしいと言われることもある。好きだからとしか言いようがない。サーフィンの話をすると『もうサーフィンはいい』ってなる。それは当たり前だと思う、なのでまあ家族には話さずに友だちとそんな話をしていた(パラサーフィンの)映像を見つけては送ってこうやってやるらしいよって」

支えてくれるパートナー・介助犬「ダイキチ」

しばらくして遠出のため専用の車を手に入れました。家族が心配しないよう、もしもの時に自分を支えてくれるパートナーも探しました。8年の付き合いになるのは県内初の介助犬「ダイキチ」です。体の自由を奪われ、より活動的になったのも海に出るため。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「まあ単純に好きだから。サーフィンが好きですし海が好きなんで元の生活に戻るイコールやっぱりは海は外せないキーワード」

いつも決まって聞かれます。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「怖くはない恐怖心とかは特にない。なんでなんですかね。別に怖いイメージ嫌なイメージがない」

おととし、昨年は世界3位にまで上りつめました。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「まずは金メダルをとりたいというのが一番の目標なのでそれに向けて準備していこう」

世界選手権まであと1か月、今は「次の世代につなぐための黎明期」

世界チャンピオンを目指して今年も挑戦の季節がやってきました。日本代表をかけた選手権。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「世界戦の話をしていました。一緒に行っているメンバーなので。ハンティントン・ビーチ、オレンジカウンティっていう最高の所です。ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーも近い」

競技は義足や膝立ち、視覚障害や腹ばいなど九つのクラスに分かれています。藤原選手は腹ばいで補助が必要なクラス。ピッチャーらと波の機嫌を読み合います。

(藤原選手のピッチャー・佐藤 裕昌さん)
「上手な人ってここの波こういう風に見ているんだなって、僕だとトレーニングしてフィジカルで波に立ち向かっていこうをテーマにしてやったりするんですけど、力じゃないからサーフィンはって言われると」

体の自由を奪われてもずっとどう触れ合えばいいか考えてきました。

(藤原選手のピッチャー・佐藤 裕昌さん)
「いまの波、よかったねって。誰かと一緒に同じ波を目指して、漕いでって、波に乗って、どうだったいまのっていうやりとりをいままでしたことなかった。それが斬新で、楽しくて」

15分の試合を2回。最高の波を求めて何度も沖に出ては仲間と喜びを分かち合います。

「優勝は藤原智貴選手です」

愛好者は増えています。ただ、念願だったロスパラリンピックの正式種目にはまだ決まっていません。

(パラサーファー・藤原智貴選手)
「次の世代につなぐための黎明期ってこういうものなのかなって思いますけど、誰かがやらないと広がらないし、介助犬もそうですけど。それが整うのを待っていたら僕の人生が終わってしまう。何も変わらず終わっちゃったってなるじゃないですか」

波は生きる喜びまで奪いはしませんでした。世界選手権まであと1か月。初のチャンピオンを目指して仲間と沖に向かいます。

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