戦争の記憶を未来につなぐ「NO WARプロジェクトつなぐつながる」。捕虜への虐待を行った罪で、BC級戦犯として処刑された父をもつ男性がいます。死後、男性のもとに届いた父からの遺書。遺書に託した父の願いとは…

「私は國のために散ります。何事も運命です」

太平洋戦争が終結した翌年に書かれた遺書が残っています。兵庫県西脇市に住む寺越脩さん(84)。この遺書を書いた寺越恒男さんの息子です。

恒男さんは戦時中、衛生兵として東南アジアで外国人捕虜などの治療にあたっていました。

遺書を書いた恒男さんの息子 寺越脩さん
「お灸の資格を持ってたもんで。日本から医薬品が送ってこないから、灸を据えた」

しかし、日本が敗戦すると恒男さんは、捕虜に施していた「お灸」が理由で、シンガポールのチャンギ刑務所におくられたといいます。

「やけどの痕が残ってると、火で拷問したと」

東京裁判(1948年)
「東條被告を有罪とする」

敗戦後、日本の指導者層が「A級戦犯」として裁かれた一方で、900人以上の将兵が捕虜への虐待などを行った「BC級戦犯」として処刑されました。恒男さんもまた、“虐待の罪”で絞首刑になったのです。37歳でした。

BC級戦犯・恒男さんの息子 寺越脩さん
「『お前の父は、戦争犯罪人になった。死刑に』『表立って言わんように』と。言ったら差別されるから」

恒男さんの死から5年後、脩さんの元に届いたのが恒男さんの遺髪。そして、家族に宛てた8通の遺書でした。

「父上様ご心配をおかけいたしました。子供二人をお願いいたします」

脩さんと姉の幼いきょうだいに向けては…
「世間の人から『親のない子供は』と笑われぬようにしなさい。父は二人の幸福をただひたすら祈っております」

BC級戦犯・恒男さんの息子 寺越脩さん
「死刑執行されることがわかって、二人の子どもを残して、ほんとうにつらかったと思うねん。これで親父と繋がるんかなあと思ったら…なんか侘しいなあ」

その後、シンガポールに眠る父の墓に初めて訪れた脩さん。あったのは、小さな石碑1つでした。脩さんは、定期的にシンガポールに墓参りに行っていて、いつかは処刑された135人の名前を刻んだ墓標を建てたいと考えています。

BC級戦犯・恒男さんの息子 寺越脩さん
「別になにも望むものはないけど、親父と対面でお茶を飲みたかったな。普段の生活がほしかったな」

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