戦前に一家で来日し、大戦中に「敵国人」として名古屋にあった外国人強制収容所に収監された経験を持つイタリアの作家、ダーチャ・マライーニさん(87)が来日した6月、東京で開かれた市民集会で印象に残ることがあった。スピーチした女性が「ダーチャさん、ごめんなさい」と謝ったのだ。市民団体「POW研究会」の小宮まゆみさん(72)。元高校教員で戦時下に全国にあった外国人収容所を30年間調べてきた人だ。

「語り継ぐ会」の参加者は、収容所で亡くなった5人の死を悼む碑の前で手を合わせ、花をたむけた

 1941年12月、日米開戦と同時に、日本に暮らす米国や英国など連合国側の18~70歳前後の男性が全国の施設に収容された。名目はスパイ防止や身柄の保護。開戦時に全国で約30カ所だった収容所は終戦までに延べ約60カ所に増え、延べ約1200人が収容され、50人が死亡した。  実は女性も収容されていた。小宮さんは90年代、勤務校で戦前、校長を務めた米国人女性が、日米開戦日から特高の監視下に置かれ、後に収容された事実を知り、民間人収容の問題を調べ始めた。  地元横浜にあった神奈川第1、第2抑留所には、全国最多の計93人が収容され、43年に横浜から70キロ離れた旧北足柄村内山(現・南足柄市)の山荘に移転。53人が移され、過酷な生活で栄養失調になるなどして5人が死亡した。  この収容所には貿易商など横浜の外国人社会の中心にいた人が多い。遺族の出羽仁さん(71)の祖父ウィリアム・デュアさんと父シディングハムさんは英国籍の日本育ち。妻や母親は日本人だ。父は医学生だった22歳のときに収容され、日本を愛した青年の苦悩を日記に書いていたことが死後判明。出羽さんは2021年、「英国人青年の抑留日記」として出版した。

旧北足柄村内山にあった神奈川第一抑留所=米国立公文書館蔵、POW研究会提供

 出羽さんや小宮さん、地元住民らは5年前から内山の収容所跡で、収容所の史実を伝える「語り継ぐ会」を続ける。今年も地元足柄高の生徒も参加して7月に開かれた。  遺族の松下英慈さん(65)は、収容所で病に倒れ、衰弱した体で帰宅して10日後に亡くなった英国人、アーサー・M・カーデューさんの孫。祖父の名を抑留日記に見つけて感動した。「祖父のことをよく知らず、知る手掛かりもなかった。日記を読んで彼の生きた証しを感じた」と語る。このように戦後80年に迫る今も、埋もれた記憶が市井の人の力で掘り起こされている。  だが肝心の加害国日本政府の態度は冷たい。敵国軍人でもない民間人を収容したのに、米国などのように謝罪していない。強制収容所が過去の問題ではなく、現在進行形の問題だからではないか。  例えば入管。国家は人権を保障した憲法にしばられながら、憲法の理念が及ばない「例外」を設け、自由を奪う。それはスリランカ人ウィシュマさんの死にもつながっただろう。敵視すれば非人間的な扱いも許される。そんな感覚が今も足元にあることにこそ目を向けたい。 

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