米国の水爆実験で静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした「ビキニ事件」から今年3月で70年が過ぎた。事件を受けて翌1955年8月、広島で初めて開かれた原水爆禁止世界大会に、千葉県の高校生5人が出席。生徒たちは大会の準備から関わり、反核への誓いを記録誌「炎」に残した。ウクライナを侵攻するロシアは核の使用をちらつかせ、核拡散防止条約(NPT)での協議でも核廃絶の動きは遅々として進まない。世界中で核の脅威が消えない中、5人の意志を語り継ぐ人がいる。(山本哲正)

◆ビキニ事件への問題意識が入り口に

原水爆禁止世界大会・関東代表団の一員として広島に向かうため、東京駅で「千葉県」の旗を持つ木更津第一高校の生徒(中央奥)ら(栗原克栄さん提供)

 準備会、世界大会に出席したのは、県立木更津第一高(木一高、現在の県立木更津高)の生徒5人。同校の生徒は54年の文化祭でビキニ事件を取り上げ、原水爆禁止の署名活動も実施した。これが縁で、生徒会長の本吉忠雄さんらが東京であった世界大会準備会と、広島で開かれた世界大会に参加。胸に刻んだ反核の誓いを「炎」に記録した。  5人は既に他界し、木一高の逸話は時と共に風化しつつあったが、木更津高元教員で木更津市史編さん委員を務める栗原克栄(かつよし)さん(73)が2002年、同校100年史をまとめた際に再び「炎」に光を当てた。

◆「できるだけ被害者の救済運動に努力しよう」

 「被害者の救済は、今まで原水爆禁止の後ろに隠れていた。帰ったらこの事実を報告し、できるだけ被害者の救済運動に努力しよう」。「炎」にこう決意を記したのは、木一高3年だった鴇田(ときた)初男さんだ。

第1回原水爆禁止世界大会後、生徒たちがまとめた記録誌「炎」(一部画像処理)

 世界大会会場の広島では、被爆男性から話を聞いた。「私の妻は原爆で両目を失い、娘は右目を失った。今年になっても10人が原爆症で死んでいる。これが平和と言えるのか」。男性の言葉に衝撃を受け、「胸の中までジーンと染み込んでくるようだった」と日記調で書いた。  同3年の田丸弘さんも、「被爆者を顧みずして原爆禁止など叫んでも、それは地に足のついていないものだ」と書き残した。

◆「当時の若者の思いを今の若い人に知ってほしい」

 本吉さんの同級生の古川秀男さん(87)は、世界大会前年に自衛隊が発足したことに触れ、「当時は木一高で日本の再軍備を心配し、防ぐためにも原水爆禁止にしなければという熱いムードがあった」と振り返る。  あれから70年、核廃絶には遠い現実が目の前にある。栗原さんは「ロシアのプーチン大統領が核兵器使用をちらつかせる今こそ、当時のように幅広く核廃絶、平和を求められないだろうか。当時の若者たちの思いを今の若い人にも知ってもらいたい」と話す。栗原さんは、もう一度「炎」に光を当て、地域の文化祭や平和展で反核に向けた若者の誓いを語り継ぐつもりだ。

 ビキニ事件 1954年3月1日、米国が太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で、広島原爆の約1000発分の爆発力を持つ水爆「ブラボー」の実験を行い、近くの島の住民や周辺海域にいた漁船が被ばくした。米軍が指定した爆心から30キロの危険区域の外側、約160キロ東で操業していた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人も放射性物質「死の灰」を浴びた。約半年後に無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が死亡し、日本で反核世論が高まった。



鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。