能登半島地震では、ありとあらゆる多くのものが傷つき、失われました。思い出の詰まった時計もその一つです。壊れた時計だけでなく、持ち主の思いもよみがえらせる時計職人の仕事です。

時計の修理を行う時計職人、匠亞陀(たくみ・あだ)さん。文字通り「匠」です。

金沢市野町で時計の修理、販売を行う工房亞陀を開いています。

和時計師・匠亞陀さん「時計と会話しながらしゃべりながらやっている。時計見てると悪いところ教えてくれる」

父が開いた時計店を継ぎ、匠さんは今、柱時計や置き時計の修理を専門としています。倒れたり、落としたり、水に浸かったりして動かなくなったという時計は全国から届きます。

匠さんは、壊れたパーツを手に入れるため世界中のネットオークションで時計を落札したり、手に入らないパーツは自分で作ったりしています。まさに「匠」です。

和時計師・匠亞陀さん「みなさん本当に喜んでね、笑顔で帰られますよ。大事に風呂敷に抱えて帰る。『今度またうちに来るなよ』と嫁にやるような感じ」

能登半島地震で壊れた柱時計 民泊の常連客が修理に持ち込む

宝達志水町にある民泊施設「くずの里」。ここにも匠さんの修理を待つ時計があります。「くずの里」は丸谷英子さん(90)が築150年の生家をリフォームして営んでいます。

丸谷さんが民泊を始めた15年前にシンボル的な存在にと購入した柱時計。

能登半島地震の発生後、復興の様子を記録したいと何度も能登を訪れている京都市在住の写真家、谷口菜穂子さんも「くずの里」を利用する一人です。

谷口菜穂子さん「気になるね、置いたまんまやもんな」
丸谷英子さん「もったいないもんね」「そりゃそうや」
谷口菜穂子さん「毎回、泊まるたびに時計の話を出してこられてどうしようって言われて。よっぽどやっぱり気にされているんだな」

高さが2メートルほどもある大きな柱時計は地震の揺れで倒れ、振り子が外れるなど壊れてしまいました。

谷口菜穂子さん「象徴的な存在だったと思う、あれだけ大きいのでどんと鎮座していたわけですから」

谷口さんが、時計を修理してくれるところを探していたところ、工房亞陀にたどり着きました。

「時計は楽器です」 会話で気づく柱時計の魅力

匠亞陀さん「だいぶ酷いですね文字盤は?」
谷口菜穂子さん「これ持ってきました。秒針もあります」

時計の針は、地震が起きた時間で止まっていました。

匠亞陀さん「大きい時計はすぐ倒れる。こういうのは振動すると弱いからどんと倒れる。こういう時計の修理の問い合わせが結構ある」

「時計は楽器」と話す匠さんですが、大事に思う気持ちは人一倍です。

匠亞陀さん「次の時代に継承する義務がある。あんたが壊して潰したらそれで終わりなので、なんとか生き返らせたいと思いますよ」

「修理に持ち込まれる時計は運がいい」 現実は捨てられる数々の時計

工房亞陀によって再び命を吹き込まれた柱時計は能登町にもあります。

能登町に住む室谷伸子さん「ゆらゆらしてここに倒れたんでしょうね。この畳の跡がどこがぶつかったのかわからないですけど、横倒しになっていた」

父親が購入し、40年以上の時を刻んできた室谷さんの柱時計は、元日の地震で倒れ、壊れてしまいました。

室谷信子さん「ボンボン鳴らない間は、とても寂しいというか、本当に時が止まったというかそういう感じでした」

当たり前のように時を知らせていたボンボン時計。その音がなくなって初めて知った、存在の大きさ。工房亞陀の仕事は、時計の持ち主の止まってしまった時間を再び動かす仕事です。

室谷信子さん「また時を刻んでくれて本当にうれしく思っています。大事にこれからも大事にしてゆきたいと思っています」

能登半島地震によって壊れてしまった時計は数多くあります。そのほどんどは、修理もされず捨てられているのが現状です。

工房亞陀の匠さんは「自分のところに持ち込まれた時計は運がいい時計だ」と話しています。時計には、家族の思いが詰まっているものも多く、今回の地震でついた傷も含めて1つでも多くの時計が後世に継承されることを願わずにはいられません。

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