1958発足の団体 東友会

広島・長崎への原爆投下から今年で79年。
今もなお、被爆者やその家族のために相談窓口を設け、当事者と共に国に補償を求めたり、核兵器の廃絶を目指すための活動をしている団体があります。
東京に移り住んだ被爆者が結成した団体「東友会(とうゆうかい)」は1958年に発足し、今年で67年目を迎えます。
東友会に寄せられる相談件数は1年間に1万2000件以上。
これまで受けた相談の中には、被爆者であることへの偏見に苦しみ、長崎で被爆したことを結婚相手に話せないまま生活を続ける人もいたと言います。
東友会で相談役を42年続けている村田 未知子さんに聞きました。

東友会・相談役の村田 未知子さん

東友会・相談役の村田未知子さん
「(私が相談を受けた人は)900mで被爆されて、ケロイドがなくても被爆者ってわかっただけでも結婚できなかったっていう。 五島列島に家があったんで、その日のうちに避難されて、それっきり長崎には入ってないんです。ところが小さな島だから、彼女は長崎で被爆したってことを皆さん知っていて縁談が全く来なくて。それで最後は長崎から出て被爆したことを隠して結婚した。ご主人にもずっと言わないけれども 子供ができないようにしてきて、だいぶ、いつ頃かしらね『長崎で被爆したことを話した』って いう方もいらっしゃいましたね」

東友会に寄せられた相談のひとつ

被爆当事者の高齢化

最近では、当事者の心の相談よりも「国の手当を受けたい」という被爆者や被爆二世からの相談が多いと言います。
変化しているのは、相談を受ける側の東友会も。東友会の平均年齢は現在85歳。
相談役の村田さんは東友会の高齢化をこのように話します。

村田未知子さん
「10年後は東友会はないかもしれないなって、これははっきり思います。自分の体験がないのに、いろんな方の体験を聞いたり親からの話を聞いたりして、核兵器をなくそうとかって言って顔を晒して名前を晒して立ち上がってくれている方たち。私が来た当時の方たちは自分が(被爆の)体験があったわけですけれども、今の方たちは、もう40年前の方と違う。その方たちが今もう80代の半ばになってきてる。10年後95歳まで語れますかしらね」

村田さんご自身は戦後生まれで被爆二世ではありませんが、小学生のときにグラフィック誌「アサヒグラフ」(朝日新聞社発行)で被爆して火傷を負った女学生の写真を見たことをきっかけに、幼くしてソーシャルワーカーの道を目指したそうです。
当事者が高齢化する中で、村田さんのような支援者の存在が 今後ますます重要になってくるかもしれません。

村田未知子さんがこの仕事に就くきっかけになったグラフィック誌「アサヒグラフ」

父が娘に残したひとつのカセットテープには…

父・平山眞一さんの遺品から出てきたカセットテープ

また、東友会には被爆二世三世の人でつくられる「おりづるの子」という組織もあります。
メンバーの一人、被爆二世の平山 雪野(ひらやま ゆきの)さんが父の遺品整理で見つけた一つのカセットテープには、父・眞一(しんいち)さんが1945年当時、東京から福岡に向かう途中の広島での被爆体験が収められていました。
眞一さんは当時21歳の軍人で、乗っていた列車が広島駅の手前で止まり、橋が焼け落ちる川沿いを彷徨う状況が語られています。
娘・雪野さんからお父様の声が収められた貴重なカセットテープをお借りしました。
生前、眞一さんが病気療養中の病棟でドクターとナースに語りかけた音声の一部です。

平山眞一さんのテープより
「いってみたら僕は広島の町っていうのは一遍も行ったことがない。まあやっぱり悲惨な光景だけど火傷して死にかけている人に水をやったらすぐ死んじゃうんだってね、飲ませたら。でももう苦しがっている人たちのために水を与えざるを得なかった。その人たちの命を奪ったと言って後悔している人がたくさんいるのね。川があって、みんな暑いから川の中に逃げ込むのね。川の中に逃げたら、溺れるに決まっているんですよ。助けてやるにも助けてやる人手がないからみんな一緒になって溺れていく、そういう状態で」

父から受け取ったバトンを語り継ぐ娘

平山眞一さんと娘の雪野さんはどんな話題でも話す仲の良い親子だったそうですが、被爆のことだけはお父様から直接話されることはなく、雪野さんから改めて聞くこともしてこなかったそうです。
そんな雪野さんはカセットテープを再生し、久しぶりに父の声を聞けてうれしく、また初めて知る父の被爆体験に「どれだけつらい想いをしただろう」と、ボロボロ涙を溢しながらカセットテープを繰り返し聴いたそうです。
そして、父が残したこのカセットテープとの出会いをきっかけに若い世代に語り継ぐべく、テープを書き起こし、当時、父・眞一さんが辿った広島周辺の川沿いを紙の地図ひとつだけ持って歩いてみたそうです。

父のカセットテープに残された被爆体験を娘・雪野さんが繰り返し聞いて書き起こした全文

2010年、病気療養中の病棟で平山眞一さん(当時86歳)が語ったもの ※一部抜粋
「僕は今日まで被爆体験をしゃべったことがないし、今後もおそらくその機会はないと思う。
生涯1回だけの告白になる。原爆が落ちた1945年、僕は21歳で、陸軍の歩兵見習い士官で久留米にいた。
東京の砲兵工場で工員が足りないので、九州から200名ほどの部隊を輸送しろと言う命令に従い、東京に行き、8月6日はその帰りだった。
12時過ぎに広島の東側の駅、海田市駅で列車が止まってしまった。
おかしいなと思ったが、超満員の列車の乗客は皆降りろと降ろされた。
翌日までに久留米の部隊に帰れ、という軍隊の命令があったので、広島を抜けて、西側に行けば、列車があるのではないかと思い、歩いて行こうとした。
しかし、憲兵が交通遮断していて、広島方向へは一切人を行かせないということだった。
その段階では、一般の人は原爆だなんて全く知らなかった。
しかし軍はもう分かっているので、人を広島に行かせないことによって、日本が大変な被害を受けて、危ないという印象を持たせないようにしていた。
部隊だったら通すと言うので、同じ汽車に乗り合わせた他の兵隊何人かと部隊を編成したら許可が出た。
路上は広島から逃げてくる人達で一杯。
救援隊もいない。本当に負傷者以外は誰もいない。
広島駅までは、そんなに時間はかからない筈だった。
しかし、道路には、電柱が倒れている。
電柱には電線がついているから、電線が鉄条網みたいな障害物になって歩けない。
下をくぐったり、よけたりして歩いていくから、時間がかかる。
防空壕は燃えていて、周辺には逃げるところがない。
火の海の中、なかなか道が歩けないので、何時間かかったかわからない。
広島駅のそばまで行ったのが、もう午後2時か3時頃だったと思う。
僕は広島の町には一度も行ったことがない上に、地図はなく、町の様子は知らない。
黒い雨も降っていた。にっちもさっちも行かなくなって、うろうろしていたと言うのが実情。
負傷者が大勢いたが、助ける者がいない。
僕らが編成した部隊は十名もいなかった。
それだけの人数で燃え盛る町の中に入り、大勢の負傷者の救出など到底できない。
しかし、助けてくれ、という声に応じて、とりあえず水筒の水をあげたり、水を汲んできてあげたり、できる限りの救援活動をした。
負傷者が水をくれって言った話があるでしょう。
負傷者や、火傷をして死にかけている人に水を飲ませたら、すぐ死んでしまう、という話を後から聞いたけれど、当時僕はそんな知識もないから、水を飲ませた。
救援に行った人達、あるいは家族が被爆した人達の中に、水を与えたことを後悔している人がたくさんいる。
でも水を求めて苦しがっている人達の為に水を与えざるを得なかった。
僕は海田市の方から、線路に沿って歩いたけれど、なかなか広島駅に行けない。
爆心地の周辺の大きな川の橋がいくつも落ちて、橋を渡ろうと思っても渡れないから、進んでは又引き返して、どこか橋の渡れる所をうろうろ探し回った。
救援しながら、橋を探しながら、広島を抜け出す道を一生懸命探した。
町には瀕死の負傷者しかいない。
聞いたら、広島を攻撃した飛行機は1機か2機だったから、もし又飛行機が来たら、もう防空壕はないので、どうにもならないから死ぬしかない。
だから何とか早く広島を脱出しなければならない。
うろうろしながら見た光景は、やはり悲惨なものだった。
負傷している人達は、自分の命のことしか考えていない。
皆暑いから、暑さを逃れる為に、川へ向かう。
階段からぞろぞろ川に降りて行くのだけれど、動けないような負傷者が川に入ったら溺れるのに決まっている。
でも、必死に逃げているだけで、そういうことは考えられない。
その川では、上流で溺れた人の死体が一杯流れている。
それを見ながら、皆どんどん溺れていく。
しかし助けてやるにも、もう助けてやる人手がいない。
もう一つの避難先はこの辺の低い山だった。
何とか火から逃れるために山に登った負傷者も、助けてもらえる訳ではなく、結局山で死んでいく以外になかった。
結局、夜真っ暗になって、もう半ば諦めながら、うろうろしていたら、8時頃、鉄道線路の北の方で、ボーって汽笛が鳴った。
救援列車が西の方から来て、汽笛が聞こえる者は、救援に来たから集まれ、という合図だった。
その合図を頼りに、その音のする方向に行ったら、横川という、広島の次の駅。蒸気機関車に貨車が2両ついているだけの列車で、岩国の方に行くから、負傷者は、その貨車に乗り込め、ということだった。
列車は何時間か、ボーボー汽笛を鳴らしながら、そこに止まっていた。
貨車には負傷者が横になって寝られるようにするため、僕等は占領しないよう、蒸気機関車の後ろの石炭車に乗っていた。
この貨車に乗ったのは、何とか駅まで自力で来られた負傷者達。
何時間か経って、貨車が一杯になり、動き出したのは、真夜中近かったと思う。
汽車が動き出すと、酷い火傷している負傷者は、体が動いて擦れるから、耐えられない痛みに襲われた。
痛いので、貨車から乗り出して、落ちてしまう者もいた。
落ちたらどうなるかというと、狭い線路なので、転がって、外へ転がればいいけれど、中へ転がったら、列車の車輪にひかれる以外にない。
現に貨車がガタン、ガタンとひく音がした。
乗り出す人は、たとえその事が分かっていても、もう耐えられなくて逃げ出す。
そういう悲惨な状況が、その列車に乗った人達に起こった。  
僕は結局10時間くらい、広島にいたのではないかと思う。
この話は、僕等みたいに軍人で、何とかまだ丈夫なままで、西から来た初めての救援列車に辿りつけた人間、または、その列車の関係者しか知らないと思う。」

被爆二世の会「おりづるの子」メンバーの平山雪野さん

アメリカの子どもたちへ

雪野さんはその後、2015年には、ニューヨークで開かれたNPT=核拡散防止条約の再検討会議に招かれ、その際、アメリカの日本語学校の子どもたちに被爆者たちの証言を伝えに行きました。

被爆二世の会「おりづるの子」のメンバーで集めた被爆証言

被爆二世三世の会「おりづるの子」平山雪野さん
「アメリカの生徒たちは、事前にしっかり原発のことを勉強していて、突っ込んでくる質問が非常に厳しいものがありました。『原爆が最初に落とされたのは広島だけど、そこからなんで長崎に落とされたんだ』、『なんで、そこで日本政府はどうにかしなかったのか』など、ちょっと私のレベルでは答えられないような突っ込んだ質問もいくつかあり、広島・長崎で始まったことを、今も残念ながら核兵器は世界中にあって、この状況を一体どうしていくべきなんだっていうことを、逆に彼らが問題を提起してくれたような気がします。」

歴史を後世に語り継ぐために、自分の世代だからこそできることを探していかなければなりません。

(TBSラジオ「人権TODAY」担当:久保絵理紗 (TBSラジオキャスター))

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