終戦直前の8月10日にアメリカ軍の空襲を受け47人が亡くなった新潟市では、戦争経験者が少なくなるなか、“戦争を知らない世代”たちが悲惨な戦争の記憶を伝えています。

『終戦から79年』

「ここが、一番戦火が激しかった新潟港であります…」
新潟市が毎年この日に主催する『新潟の戦争の記憶をたどるツアー』では、空襲で被害を受けた場所や慰霊碑などを巡ります。

このツアーの案内役は、“みなとまち新潟”の魅力を紹介する『新潟シティガイド』が務めています。

観光ガイドの1人である渡辺博さん(80歳)は、空襲で47人が亡くなった8月10日は新潟市にとって特別な日だと考えています。

「8月10日というのは、新潟市のいわゆる終戦記念日なんですよ。日本は8月15日なんですけどね、新潟市は8月10日がね」

その8月10日のツアーの10日前、最終確認のためにガイドが集まりました。

現在、“みなとまち新潟”の戦争の記憶をたどるツアーでガイドを務めている6人のうち、4人は戦後生まれです。
後輩ガイドに教える立場の渡辺博さん(80歳)さんも戦中生まれですが、自身も空襲の記憶はありません。

「あの時はまだ2歳ですからね。全く戦争のことは覚えていません」

空襲の被害にあった新潟港付近で育った渡辺さん。
ガイドをする上で、空襲とその被害について調べてきました。
そこで出会ったのが、空襲で犠牲になった人を追悼するために自費で慰霊碑を建てた住民有志の1人、西野留蔵さん(故人)です。

「自費で慰霊碑を作っておられる方ですけどね、あの方にたどり着いて…。話を聞くとね、ベッドから西野さんが起き上がって涙ぐむんですよ。だからその人たちのためにも伝えていかなければいけないなと…、そう思ってね」

渡辺さんは80歳を迎え、後継者の育成を強く意識していました。

「21世紀になってもまだこんなことをして、兵器はどんどん新しくなってきているし、平和を守っていくにはどうすればいいのかなというが、私ももう80超えたので、いつまでもやってるという状況ではないし…」

新潟シティガイドの渡辺博さん(80歳)さんは、これまでに調べた“戦争の記憶”を後輩のガイドに引き継いでいます。

【後輩ガイド 島垣二佳子さん】
「渡辺さんが、これを風化させてはだめだと、8月10日のこういう状況があったというのをみんながわかってなきゃいけないと、ものすごい切々と語ってくださったんですね。それで少しでもお手伝いができればいいなと」

新潟市が米軍機16機の襲撃を受けた8月10日のツアーには今年、様々な世代の25人が参加。最初は、水戸教公園で新潟市が開催する献花式に臨みます。

1945年8月10日、新潟市はアメリカ軍の空襲を受け47人が犠牲となりました。

空襲を受けた際に唯一応戦したのが、新潟港近くの浅瀬に乗り上げていた軍用船・宇品丸(うじなまる)。乗組員19人が犠牲となりました。

ツアーは、水戸教公園での献花式のあと、中央区の船見町にある『宇品丸慰霊塔』に向かいます。渡辺博さんが話を伺ったあの西野留蔵さんらが、空襲で犠牲になった人を追悼するために自費で建てた慰霊塔です。

米軍機は宇品丸への攻撃で弾丸をほぼ使い果たしたため、市街地の被害は最小限に抑えられたと、慰霊塔の脇にある説明文に記されています。

【ツアー参加者】
「身近なところでそういったことがあったっていうのが、やっぱり知らなかった」

『新潟の戦争の記憶をたどるツアー』の参加者の中には、戦争で苦しい経験をした人もいました。新潟市中央区に住む松村多文さん(81歳)です。

1943年に満州で生まれた松村さんは、終戦翌年の1946年、3歳のときに日本に引き揚げました。その時に感染症の水際対策として設けられた検疫所での経験が、いまだに忘れられないと話します。

「DDTという殺虫剤をね、もう連日のように吹きかけられてね、その臭いがね…。もちろん風呂もないですよね。ゾッとしましたね。ここで死ぬんじゃないかと思ったんですけど…」

こうした“戦争の記憶”を忘れてはいけないと思い、松村さんは『新潟の戦争の記憶をたどるツアー』に参加したそうです。

「あと何年生きられるかわかりませんけれども、命を大切に、これからも死ぬ気で頑張っていきたいと、こんなふうに思って…」

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。