シリーズでお伝えする「戦後79年」。終戦間際、愛知の兵器工場を狙った3000発もの爆弾から生き延びた女性が静岡県浜松市の山あいにいます。忘れられずずっと抱えてきた記憶。初めてカメラの前で語りました。

浜松市天竜区佐久間町。穏やかな山あいに日名地登志子さん(95)が暮らしています。戦争に巻き込まれた少女の1人です。

<日名地登志子さん(95)>
「『工廠』へ行く時のバッジがここに付いてる。『ナッパ服』っていうの着て行ったの。これは4年生、12の時に1年生だもんで…15歳だね」

日名地さんは1941年の春ふるさと佐久間町浦川を離れ愛知県新城市の女学校に進学。その年の12月、太平洋戦争が勃発します。そして始まった学徒動員。

15歳だった日名地さんは『東洋一の兵器工場』と呼ばれた豊川海軍工廠の会計部で働き始めます。

弾丸などを作るため、昼夜5万人が働いた工廠。およそ6000人が日名地さんのような学生でした。

<日名地登志子さん(95)>
「あの時分だもんでね、戦争に勝つと思ってただよね、みんな。負けるなんて思わなんだよね」

広島に原爆が落ちた翌日。豊川空襲です。わずか26分間で3256発の爆弾が落ちました。死者2500人以上、負傷者は1万人を超えたとされています。

<日名地登志子さん(95)>
「バンバンバンバン爆弾の音で、身体が動くだよ。ただ座っとるじゃないだね。そうだもんで鼻血が出てよ」

日名地さんは普段逃げていた壕が人でいっぱいだったため、急きょ書類を保管する壕に逃げ込みました。本箱が並ぶ細い通路に学生たちが一列になってしゃがんでいたそうです。

<日名地登志子さん(95)>
「女子商業の生徒が『お母さーん』とかこうとかみんな泣き声で、怖いもんで」

日名地さんはこの日、実家の浦川へ電車で帰る予定でした。

<日名地登志子さん(95)>
「切符を前の日(6日)に買いに行っていたの。(同僚の)杉山かづさんと長坂さんと3人で。牛久保の駅までね、買いに行って来て。そしたらその衆死んじゃった。前の防空壕へ入ったもんで」

逃げ込んだ壕の違いが生死の分かれ目でした。

<日名地登志子さん(95)>
「自分だけ助かったで良かったでもないだよね、あの時分は」

8月7日。日名地さんは79年ぶりに工廠の跡地を尋ねました。所属していた会計部は正門にほど近く、門は現在、企業が再利用しています。

<日名地登志子さん(95)>
「懐かしいだけどね。若い時はぱっぱぱっぱと(正門に)入っただにね、号令かけちゃ」

豊川空襲の犠牲者を祀る供養塔です。

<日名地登志子さん(95)>
「友達の顔が、ずーっと出てくるね、うん」

塔に刻まれている墓碑銘。空襲の前日一緒に切符を買った同僚2人の名前もあります。

<日名地登志子さん(95)>
「名前があるってことはねえ」「まあ…本当に」

79年の時間が経っても、忘れられないことがあります。

<日名地登志子さん(95)>
「燃えてる盛り、本部庁舎が燃えている、弾丸の(作る部署の)方でパンパンパンパンと爆ぜる音とかね。音は、消えんね。薬きょうが爆ぜる音。そういうのが耳の底に入っちゃってね、いつまでも、忘れんね」

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