79年前、太平洋戦争末期の9日、宮城県内各地で空襲があったことをご存じでしょうか。美里町の小牛田地区では20人以上が亡くなったと言われています。あまり知られていないこの「小牛田空襲」を体験した男性が当時の様子を証言してくれました。
空襲の伝承活動を行う男性
美里町小牛田地区に住む沖田捷夫(かつお)さん(79)です。
沖田捷夫さん:
「ここが小牛田駅の構内で80年前よりは少し狭くなったかな。もっと広かったですね。小牛田は交通の要衝で戦時中、集中的に狙われたんですね」
79年前、地元で起きた「小牛田空襲」について10年以上、独自に調査・研究しています。
沖田捷夫さん:
「こっちとこっちの両端に燃料タンクと石炭を積むところがあって、そこも集中的に狙われて爆撃された。それから車庫の向こう側に(民家が)2軒あって、流れ弾があたって4人ずつの家族が即死ですよ」
1945年8月9日と10日、小牛田にアメリカ軍の戦闘機が襲来。爆撃などに巻き込まれて、住民など20人以上が死亡したとみられています。交通の要だった小牛田駅が狙われたと言われていますが、詳しい実態はあまり知られていません。
沖田さんは、空襲を体験した住民やその家族の証言を集め、伝える活動をしています。これまでに40人余りの証言を集めてきました。
沖田捷夫さん:
「あそこの家で空襲があったんだとか、具体的になればなるほど、分かってもらえるのではないかと思って」
沖田さんが分かってもらいたいこと、それは何なのでしょうか?
13歳で小牛田空襲を体験した男性の証言
沖田さんに証言したひとり、小牛田駅の近くに住む佐々木英壽(えいじゅ)さんです。92歳の佐々木さんは、13歳の時に小牛田空襲を体験しました。
小牛田空襲を体験した佐々木英壽さん:
「8月9日、ちょうど夏休みの朝だった。午前8時過ぎに、石巻の方から20機くらいの飛行機の編隊があまり高くない、機体がはっきり見えるくらいの高度で飛んできた」
佐々木さんが描いた絵です。その日、空襲警報は鳴らず、日本軍の戦闘機が来たと思った佐々木さんは、自宅の屋根に上って様子を眺めていたと言います。
佐々木英壽さん:
「引き返してくる飛行機が見えた。反転して急降下した。羽のところから真っ赤な火柱みたいなものがドーンと落ちた。それで私は敵機だと思ったんですよ」
見えたのは、貨物列車を攻撃するアメリカ軍の戦闘機でした。
佐々木英壽さん:
「(Q 佐々木さんの自宅は当時も同じ場所に?)場所は同じだけど、全部平屋建てで、この辺に離れがあった。それから後ろに物置があった」
自宅の裏に古墳があり、当時は横穴を掘って防空壕として使っていたと言います。小牛田空襲の日も家族と一緒に身を隠しました。
佐々木さんが聞いた「機銃掃射」の音
佐々木英壽さん:
「穴の中に入っているから目には見えないですけど、飛行機のプロペラの轟音と機銃掃射のものすごいバリバリという音と爆弾が落ちた時の地響きですよね。経験したことのない怖さです」
佐々木さんが聞いたという「機銃掃射」の音。別の場所でアメリカ軍が撮影した機銃掃射による攻撃の映像です。標的は同じく鉄道。機関車の動輪やレールを貫通する威力でした。
佐々木英壽さん:
「たくさんの竹を一気に割ったようなバリバリという音。子ども心に、もう無茶苦茶だなと感じました。理屈もへったくれもないね。とにかくものすごい力で家も人もみなやられるという感じ。そういう恐怖心が残っています」
空襲の証、庭に落ちていた薬きょう
小牛田空襲の日に佐々木さんの自宅の庭に落ちていた機銃の薬きょうが残っています。佐々木さんが79年間、大事に保管していましたが、戦争の悲惨さを後世に伝えたいと考え、今年、伝承活動をする沖田さんに提供しました。
沖田捷夫さん:
「小牛田空襲のひとつの証だと、(みんなに)見せられる幸せみたいなものが逆にね(ある)」
実は小牛田空襲があった8月9日、10日には、県内全域でアメリカ軍やイギリス軍による空襲があったとされています。しかし、大規模な被害が出た仙台空襲などと比べ、残っている史料は極端に少なく、今それを知る人はほとんどいません。
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