8月9日に執り行われる長崎市平和祈念式典で市長が読み上げ、市民の思いとして世界に発信される「長崎平和宣言」に、ことしは没後50年を迎えた長崎の被爆詩人・福田須磨子さんの「詩」が引用されます。

NBCが福田須磨子さんが亡くなる1年前に制作したドキュメンタリー「われなお生きてあり~福田須磨子の生涯」(1973年)の映像資料には、体を蝕む「原爆症」の凄まじさ、そして地を這うように生きている須磨子さんの姿が、本人の肉声と共に残されています。

福田須磨子さん(1922‐1974):
「母だと思ってそれを風呂敷に包んでねそれをぶらさげてさ…そしたら軽いんですよねすごく。こんな軽いあれになってしまったんかなと思ってね…」

福田須磨子さんは23歳の時に原爆に遭い、両親と一番上の姉は自宅で骨になっていました。福田さんは「金歯」で父、母、姉の遺体を見分けふろしきに入れたと当時の状況を語っています。

福田須磨子さん:
「…これは皮膚病だろうかと思ってね、はじめペニシリンを塗ったんですよ。そしたらね赤いのが無くなったからね」

福田須磨子さんは被爆から10年後の33歳の時、被爆の後遺症「紅斑症」を発病。突如全身に赤い斑点が広がり、柔肌を蝕んでいきました。

福田須磨子さん:
「その年はものすごい暑い年で4月というのに「蚊」が出てたから、あー蚊に刺されたんだな位に思ってたんです。そしたらまたしばらくして見てみるとね、目じりが赤くなってて。今度はいくらペニシリンを塗っても塗ってもね…その赤みが消えないんです。おかしいな…どんどん赤みが広がっていくし…」

「紅斑症」を発症した同じ頃、福田さんが被爆者の苦しみをつづった詩「ひとりごと」が新聞に掲載されました(1955年)。まだ被爆者援護のない時代。体、心、家族、一日一日を破壊する原爆の非人道性を、率直な言葉で告発するその詩で、福田さんは一躍注目されるようになりました。

「ひとりごと」
 《何も彼も いやになりました 原子野に屹立する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》

福田須磨子さん:
「被爆者は次々に亡くなって、いつかは被爆者はみんな死んでしまいます。そうすると誰も原爆のことを語る人もいなくなるわけなんです」

「世の中に戦争のない平和がいつまでも続くように、それが私の念願なんです。私はただの一被爆者なのですけれども…。この世界でいま核時代になっています、誰もが避けることのないこの核時代を、いかにして人間として生きていくかというのが私の課題でもあったし、皆さま方もそれを考えて欲しいと思うんです」

「私の本を通じていくらかでもご存知になった、その原爆というものの恐ろしさをあなたの友達、友人、知人の方々に一人でも知らせてそれを次の代、次の代へと語り継いでもらいたいと思うんです。それをお願いしたくて…ごあいさつに代えさせて頂きたいと思います」

「長崎平和宣言」では、福田さんの詩のひとつを引用し、被爆の惨状と被爆者の思いを訴えることになっています。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。