新1万円札の顔・渋沢栄一(1840~1931年)は、91歳で亡くなるまでの約30年間、北区の飛鳥山で暮らした。実業家として知られるが、地域に残したメッセージも警察署や神社に大切に残されている。

◆警察官の身を引き締めた書、今も受け継がれ

滝野川警察署にある渋沢栄一の書=北区で

渋沢の書について話す滝野川警察署の稲垣政美署長=北区で

 「道之以徳齊之以禮」。王子駅前にある飛鳥山公園に程近い滝野川警察署(北区)の署長室に、一枚の書が掲げられている。論語の一節で「徳をもって民を導き、礼によって秩序を保つ」という意味だ。  贈り主は渋沢。1927年に庁舎が新築された際、署の協賛会会長として資金を援助しており、落成を祝ってしたためた。縦47センチ、横147センチ。ゆったりと落ち着いた運筆が目を引く。  「力強い字で身が引き締まる思い」。こう話すのは稲垣政美署長(59)。書は、署の歴代幹部や署員に親しまれてきたという。「徳と礼を重んじて地域の皆さんと接し、安全安心のために全力で取り組む」と誓う。

◆桜の名所・飛鳥山で約30年暮らす

 渋沢とこの地の縁は1875年、抄紙(しょうし)会社(現在の王子ホールディングス、日本製紙)の工場を建設したことに始まる。67年からパリ万博使節団に随行し、2年にわたる欧州視察で、情報ツールとしての新聞に着目したのが製紙業に着手するきっかけだったという。  79年、工場を見下ろす飛鳥山に別荘を建てた。江戸時代に桜の名所として庶民の行楽地だったところだ。1901年に移り住み、以後は本邸として暮らした。

◆「威張らず地域のために…」神社に残る足跡

七社神社の社務所に掲げられている書=北区で

七社神社の永代記録に残る渋沢栄一の名前=北区で

 署の裏手にあり、渋沢が氏子だった七社(ななしゃ)神社の社務所にも、渋沢の書「以友輔仁」が飾られている。やはり論語の一節で「友情によって仁を磨き合う」という意味だ。  地元の西ケ原青年会の活動拠点として20年に社務所が完成した際、渋沢は近隣の実業家古河虎之助(1887~1940年)と共に多大な寄付をした。禰宜(ねぎ)の和田隆之さん(53)は「町の青年たちを応援しようという思いで書を贈ったのではないか」と思いをはせる。他にも、神社名を書いた社額や祭神の名を記した書が残っている。  神社には、渋沢が病に倒れたときに町の人たちが病気平癒の祈願をし、渋沢邸を訪れたというエピソードが伝わる。「それほどまでに慕われていた。渋沢翁が日頃から威張らずに地域のために尽くしていた証拠ではないか」と和田さん。葬儀の際は沿道を町の人々が埋め尽くしたという。

◆関東大震災直後には自邸を炊き出し・物資供給の拠点に

本郷通りの中央分離帯にある「西ケ原一里塚」=北区で

 渋沢は地域の役場や小学校、石神井川にかかる音無橋の建設も支援。江戸幕府が設けた日本橋からの距離を示す「一里塚」の保存活動にも注力したが、貢献はハード面だけではなかったという。飛鳥山公園にある渋沢史料館の顧問井上潤さん(64)は「住民を招いた園遊会を頻繁に行い、地元の青年たちを自邸に招いて教訓を説いた。住民の一人として、地域を大切にする人でした」と話す。  関東大震災の直後には自邸を拠点に炊き出しや物資の供給に努めた。井上さんは「国の発展の根源は地域にあると考えていたのだろう。国と地域を分けず、公のためという信念で一貫していた」と指摘する。  ◆文・浜崎陽介/写真・由木直子  ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へメールでお願いします。 

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