広島への原爆投下から79年の「原爆の日」を迎えた6日、沖縄の離島・伊江島(いえじま)では、島を襲った惨事の犠牲者を悼む式典が静かに営まれた。戦後間もない1948年8月6日、米軍の爆弾輸送船(LCT)が爆発し、住民ら107人が死亡する事件があった。今も多数の不発弾が残る沖縄では「もう一つの8.6」が語り継がれている。(太田理英子)

慰霊碑に線香を供える島袋清徳さん=6日、沖縄県伊江村で(伊江島LCT爆発事件8・6の会提供)

◆あの日も雲一つない晴天だった

 沖縄本島の北西に位置する人口約4000人の伊江島。6日午後、島の玄関口・伊江港近くで、慰霊碑を前に遺族や住民ら約70人が黙とうをささげた。

爆発現場から約90メートル離れた場所で壊れた家屋(沖縄県公文書館所蔵)

 「あの日も、今日みたいに雲一つない晴天だった。港には船を出迎える人たちがたくさん来ていた」。式典に参列した元伊江村長・島袋清徳(せいとく)さん(86)はそう振り返った。

◆125トンの爆弾を積んだ船が爆発

 76年前の8月6日午後5時ごろ、港で約125トンの爆弾を積んだLCTが爆発した。港には島と本島を結ぶ連絡船が到着したばかり。この船に、当時小学5年の島袋さんと父親も乗船していた。  島袋さんはのどが渇いていたため、船をいち早く下りると父親から離れ、近くの民家へ向かった。ひしゃくで水がめから水をすくい、口に入れようとした瞬間、耳が引き裂かれるような爆音が響き、目の前が一瞬真っ暗に。周りは家族を捜す声や怒鳴り声が飛び交い、パニック状態だった。  母親とともに父親を捜しに港へ向かうと、真っ白だった砂浜が黒く染まり、真っ黒に焦げた遺体が散乱。凄惨な光景に立ちすくんだ。父親は無事だったが、さっきまで一緒だった乗客を含む多くの住民が爆発に巻き込まれ、命を落とした。

◆調査報告書が公開されたのは60年後

 伊江島は終戦前の1945年4月に米軍に占領され、本土空襲に向けた大量の爆弾が集積された。住民は島外に強制移住させられ、帰郷が許されたのは47年3月。爆発の1カ月前、米軍は島に持ち込んだ爆弾の投棄を始めていた。  島袋さんは「住民は焦土と化した故郷に戻り、日常と農地を回復しようと一生懸命だった。ようやく未来が見えてきたときに起きた事件だった」と語る。当時、事件はほとんど報道されなかった。惨事を目の当たりにした住民たちの精神的ダメージはあまりに大きく、事件を口にする人は少なかったという。米軍側の調査報告書が公開されたのは2008年で、それまで詳細な記録もなかった。

◆不発弾は今も日常的に見つかる

爆心地付近をみる地元住民ら。×印が爆心地、××印が爆発した米輸送船の残骸(沖縄県公文書館所蔵)

 島袋さんは、数少ない語り部の一人。終戦後の出来事だが、戦争の延長線上で起きたと考えてきた。「伊江島にとっての『戦後』は沖縄本島よりも遅い。この島の戦争体験が忘れ去られないよう、継承していかなければならない」  「事件は現在にも通じる問題」と強調するのは、伊江島出身で、事件を語り継ぐ「伊江島米軍LCT爆発事件8・6の会」発起人の島袋和幸さん(76)=東京都=だ。沖縄では、沖縄戦の不発弾が日常的に見つかっている現実がある。県は今も、約1878トンの不発弾が埋没していると推定。工事などで見つかることが多いが、市民生活への影響は大きく、事故の危険と隣り合わせの状況だ。「『爆弾禍』は広島と長崎の原爆、東京大空襲に加え、進行中のイスラエルの(パレスチナ自治区ガザへの)攻撃にも通じ、今なお続く。伊江島の被害実態を伝えることは、これからの反戦にもつながるはずだ」 

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