79年前の8月6日、広島に原爆が投下されました。
当時のことを「まさに地獄のようだった」と悲惨な様子を語る男性がいます。
胸に抱えるしょく罪の気持ちと使命感に突き動かされ、年月を経て語り部となった男性の思いに迫りました。
山口県周南市に住む折出眞喜男さん、92歳。
中学2年生のとき、広島で原爆投下を目の当たりにしました。
折出眞喜男さん
「ほんと地獄、地獄です。もう…本当にこういうことがあるのかなと思うような地獄です」
当時、広島市役所の裏で空襲のときに消火活動がしやすいよう、建物を取り壊す「建物疎開」の作業に従事していました。
しかし、その日はたまたま遅刻してしまいました。
爆心地からおよそ8キロ離れた自宅近くの坂駅で汽車を待っていたところ、目にしたのが上空を飛ぶB29です。
折出眞喜男さん
「ピカっと光ってドンと大きな爆発音がして、それからどのくらいたったか分かりませんが、もくもくと大きな雲が上がってまいりました」
駅の待合室のガラスは数枚割れていました。
自宅に戻ると、母親が喜んで迎えてくれたことは、今でも思い出すと言います。
その後、救護所となった近くの小学校で、全身に重度のやけどを負い、横たわる同級生を見つけました。
現場で一生懸命作業していた同級生と、乗り遅れて助かった自分。
声をかけることはできませんでした。
もう一度、あのときに戻れるなら…
折出眞喜男さん
「そうですね……ごめんな、大変だったな、いうことでしょうね。まぁ、その声も出てこんでしょう。彼がはっきりとした目線で私を見たならば、私はその前に立つことはおぼつかなかったと思いますよ。やはり心の中に…しょく罪というかね」
次の日、その同級生の姿はありませんでした。
亡くなった同級生は136人に上ります。
焼け野原になった街は、言いようのない異臭が漂い、川の中で息絶えた人の姿を多く目にしました。
まさに地獄のような光景でした。
折出眞喜男さん
「防火用水にのりかかったまま、黒焦げになってるんですね。そして、防火用水にちょっと目をやりますと、防火用水の中に赤ん坊が横たわっていました。たぶん、お母さんがわが子を助けたい思いで、防火用水に子どもを入れたんだろうと思います」
生涯忘れられない光景となりました。
その後、仕事の関係で山口県内で暮らすようになり、子どもにも恵まれましたが、当時のことを話す気持ちにはなりませんでした。
しかし、80歳を過ぎて考えが変わったと言います。
折出眞喜男さん
「亡くなった同級生には、すばらしい人生があっただろうに、それを絶たれてしまった。彼らの思いをね、生かされてる、生かされたということに対する彼らに対する…使命感というかな、そうすべきだと、自分では思っている」
これまで3~40回、語り部として目にした光景や思いを話してきました。
折出眞喜男さん
「最後に過ちとは何ですか?と言ってみんなに声をかける、そうすると戦争ですと言ってくれる。だからそれで私は、あぁ私の語り部の話はこれでいいと」
児童からの感想やお礼のメッセージは活動の励みです。
毎年8月6日は、生き残った同級生ともに母校の慰霊碑を訪れています。
同級生へのしょく罪の気持ちと平和への使命感。
壮絶な体験を経て、未来の平和を願う折出さんは、これからも語り部として活動を続けていきます。
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