あす8月7日に開幕する第106回全国高校野球選手権大会。2024年は阪神甲子園球場が開場して100周年という記念すべき年となります。静岡代表は、26年ぶりに“聖地”に戻ってくる静岡県立掛川西高校です。この掛川西、夏の甲子園で最後に勝利を挙げたのは、実に60年前までさかのぼります。

この年、掛川西が106回を誇る選手権大会、そして、開場100周年の甲子園で唯一、いや、最初で最後となるであろう記録を刻んでいることをご存じでしょうか。

それが、開幕戦での延長18回引き分け再試合です。

「よく18回耐えてくれた」

第46回選手権大会は、今年と同じオリンピックイヤーの1964年(昭和39)8月9日に阪神甲子園球場で開幕。掛川西ナインは、静岡70校の代表として、あの時も26年ぶりに、甲子園の土を踏みしめました。

この2日前に行われた組み合わせ抽選会で、掛川西の鈴木健司主将が引き当てたのは、開会式直後の第1試合。相手は、中九州代表の八代東(熊本)となりました。当時の出場校は全国30校で、八代東は熊本と大分による代表決定戦を勝ち抜き、初出場を果たしていました。現在の49地区代表制となったのは、この14年後のことになります。

午前9時半からの開会式を終え、10時半にプレーボールがかかった開幕戦。大会記録によると観衆は7万人、“大甲子園”のスタンドは立錐の余地なし。試合は、掛川西の左腕・山崎道夫投手(2年)、八代東の右腕・池田純一投手の両エースによる息詰まる投手戦となります。

スコアボードに並ぶ0。開幕戦から延長戦にもつれ込んだゲームは、とにかく動きませんでした。延長11回表、八代東は2死1塁から、右中間を破る適時打が飛び出したかと思えましたが、打球はワンバウンドして、いまはなき「ラッキーゾーン」に飛び込んだため、エンタイトル二塁打となり、得点ならず。試合結果を伝える当時の静岡新聞の記事には、「掛川はラッキー・ゾーンに助けられた感じ。ネットに当たって跳ね返っていれば負けていたかもしれないというピンチだった」と記されていました。

最後までマウンドに立ち続けた両エースの投球数は、山崎投手221球、池田投手187。延長18回の末、両校無得点で譲らず、大会規定により引き分け再試合となりました。試合時間は3時間35分、スコアボードの大時計の針は、午後2時5分を指していました。試合後、掛川西の菅沼安規男監督は、「山崎はよく18回耐えてくれた。涙が出るほどうれしい」と語れば、山崎投手は「(開幕戦のマウンドも)ぜんぜんあがらなかった。再試合も必ず頑張ります」と報道陣に答えました。

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【第46回全国高校野球選手権大会1回戦=1964年8月9日、阪神甲子園球場:観衆70,000人】
八代東(熊本)000 000 000 000 000 000=0
掛川西(静岡)000 000 000 000 000 000=0(延長18回引き分け再試合)
(八)池田-木村
(掛)山崎-鈴木久
<本塁打>
なし
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長い選手権の歴史の中で、決勝戦での引き分け再試合は、第51回(1969年)の三沢(青森)対松山商(愛媛)、そして、記憶にも新しい“ハンカチ王子”斎藤佑樹投手擁する早稲田実(西東京)と“マーくん”田中将大投手の駒大苫小牧(南北海道)の第88回(2006年)の2度ありますが、開幕戦では、この掛川西対八代東のみ。

高校野球はその後、ルール変更が行われ、延長は18回から15回に。さらに第103回(2021年)からは、すべての試合でタイブレーク方式が導入され、大会規定から引き分け再試合がなくなったことから、“最初で最後”の開幕戦引き分け再試合となりました。

試合終了から約18時間後、翌日の第1試合に組み込まれた再試合は、6対2で掛川西に軍配が上がり、掛川西は悲願の夏の選手権初勝利を挙げました。しかし、それ以降、夏の勝利はありません。あれから60年、あの時と同じアイボリー地、胸には「掛川西髙」と書かれたユニホームが甲子園に帰ってきます。

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