能登半島地震から7カ月余り。中学1年生だった次男を亡くした石川県能登町松波の森進之介さん(44)は「親として何もできなかった」とつらさや後悔を抱えながらも、移住者をサポートする仕事で町を駆け回る。「地元の人への感謝を伝えたい」。息子が育ったこの町を残したいと、仕事に打ち込んでいる。(上井啓太郎)

◆あの日、声をかけ続けたが…

地震で亡くなった息子の銀治郎さんのことを話す森進之介さん=石川県能登町で

 6人家族の森さん一家は2015年、金沢市から能登町に移住してきた。次男の銀治郎さん=当時(13)=は、友達とスポーツやゲームで遊ぶことが大好きな活発な子だった。  昼すぎに起きて、雑煮を食べてゆっくりしていた元日。午後4時過ぎの1回目の地震はそれほど揺れず、念のため外に出る準備をしていると、激しい揺れが始まった。進之介さんはとっさに1階の居間の机の下にもぐったが、下半身の上に2階部分の木材が落ちてきた。動けないまま腰が徐々に挟まれていった。  「絶対生きような、大丈夫やぞ」。進之介さんは身動きの取れないまま家族に呼びかけ続けた。しかし、銀治郎さんからの応答はなかった。近所の人に助けられ、三男の永吉郎さん(12)と運び込まれた町内の病院で、銀治郎さんが亡くなったことを知った。妻ら3人は無事だったものの、2人で「わんわん泣いた」。

◆支援に没頭「何もしないとパニックになりそう」

 進之介さんはドクターヘリで金沢市の病院に運ばれ、腰の手術を受けて、そのまま100日以上、入院した。「何もしないとパニックになりそう」と感じ、入院中もネット環境があればできる被災支援の手配や、移住者関連の仕事に没頭した。3月中旬にはつえなしで歩けるようになり、5月から町内での仕事に復帰した。

元日の能登半島地震で亡くなった森銀治郎さん=石川県能登町で(森進之介さん提供)

 しばらくは銀治郎さんのことについて話すこともできなかった。いまだに「1人の時は悲しくなるし、涙もよく出る」。それでも、仕事や生活を通じて町の良さをずっと感じてきて、離れるという選択肢はなかった。テレビ局の取材を受けたところ、見た人から「戻ってくれてうれしい」と伝えられた。「さらけ出して伝えることも大事なのかな」と思うようになった。

◆夏祭りに参加、涙が出た

7月26日、松波地区の夏祭りで、地元の人に誘われ、キリコ(奉燈)を担いだ。担ぎながら涙が出た。でも、「地震後に楽しい思い出ってなかった。うれしくてうれしくて、大満足で」。心の整理は付かず、葬儀もまだできていないが、「松波の子どもたちが喜ぶ地域をつくれれば、供養にもなるんじゃないか。自分が必要とされているなら動きたい」と思い始めている。  地震の直後、銀治郎さんは家のがれきの下で、永吉郎さんと手が触れるほどの距離にいた。永吉郎さんの手を、弟を励ますかのように2、3回握ったという。「最後の最後まで永吉郎の面倒を見ていた。大したヤツだと思いますよ」。自慢の息子は、今も記憶の中でほほ笑んでいる。 

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