乳がんを患い闘病しながら音楽を続けてきた高松市のピアニスト、高橋ゆり子さん(50)が、7月18日、自宅で亡くなりました。
高橋さんとシャンソンユニットを組み、同じステージに立ってきたシャンソン歌手の蓮井Micaさん(51)は、2021年秋、高橋さんに乳がんが発覚してからも、ともに寄り添い、音楽活動を続けてきました。
亡くなる直前に録音した演奏で歌うと「そばにいる気がする」
高橋さんが亡くなって10日後の7月28日。
高松市で「ヒロシマ被爆手記朗読の会」が開かれました。
高橋さんと蓮井さんは、毎年この会で、ピアノとともに朗読や歌を披露していました。
今年のイベントのチラシに、今は亡き高橋さんの名前がありました。
高橋さんは、亡くなる直前、蓮井さんが歌う「さくらんぼの実る頃」のピアノ演奏を録音していたのです。
「私にもしものことがあっても、歌い続けてほしい」と常々言っていたという高橋さん。
その想いを受けとめ、蓮井さんは、生前に録音した演奏にあわせ、「さくらんぼの実る頃」を歌い上げました。
蓮井さんは、まるで、いつもと同じように、高橋さんがそばにいるような感覚で歌ったといいます。
(蓮井Micaさん)
「歌い始める前に、『いくよ!』という感じでいつも励ましてくれる人だった。きょうも、そんな声が聞こえてくるようでした」
「この曲を練習している時にも、私の気が緩んだときには、プチっと演奏にノイズが入るんです。ゆり(高橋さん)に見られている感じがして、ちゃんとしなきゃって」
高橋さんが遺したノートには音楽への想いがあふれていた…
病が発覚した後、高橋さんのノートには、こう書かれていました。
「生かされていると思い知らされた。ここ数カ月だから、『ふつう』これに集中して生きる」
高橋さんの『ふつう』に、音楽は欠かせないものでした。
「音楽を思いきり楽しみ 人の心に届く、届けられるようなピアノが弾けますように」
高橋さんは、「自分の告別式で歌ってほしい」と、蓮井さんに折に触れ伝えていたといいます。
7月21日。
告別式で蓮井さんが歌ったのは、「愛の讃歌」でした。
2人がユニットを組むきっかけとなった曲です。
シャンソンを愛し、駆け抜けた日々 きっかけは「愛の讃歌」
2人が出会ったのは5年前。高橋さんの演奏する「愛の讃歌」に惚れ込んだ蓮井さんがユニットを組んでほしいと声をかけました。
2020年3月にユニットを結成し演奏活動を重ねていましたが、2021年秋、高橋さんに乳がんが発覚。
その後、手術や抗がん剤治療などを乗り越え、高橋さんと蓮井さんは、音楽を諦めることはありませんでした。
2023年7月、30年以上の伝統ある「岡山パリ祭」出演権をかけたオーディションにも挑戦しました。
優勝を掴み取り、10月の本番に向けて練習を重ねていた最中、がんが再発しました。骨転移でした。
それでも、高橋さんは諦めませんでした。本番では、人生の苦悩を歌う「パダン・パダン」をドラマチックに表現し、割れんばかりの拍手に包まれました。
「どんなことがあっても歌い続けて」高橋さんの言葉が蓮井さんに響く
そして、今年の「岡山パリ祭」。
7月14日の本番に向けて、練習する2人の姿がありました。
6月30日のことです。
「民衆の歌」の合唱に参加する蓮井さんのため、高橋さんはピアノを弾きました。
ピアノを弾く高橋さんに寄り添う蓮井さんは、ベリーショート。
抗がん剤の影響で髪が抜ける高橋さんとお揃いにするため、蓮井さんは、髪を切りました。
7月に入り、高橋さんの体力は次第に落ちていきました。
7月6日。
高橋さんは、28日に2人で演奏する予定の「さくらんぼの実る頃」を、蓮井さんのスマートフォンに録音しました。
このとき、高橋さんは左手が動きにくく、音数を減らして演奏しました。
「もしものときは、このピアノで歌ってほしい。どんなことがあっても歌い続けてほしい」
高橋さんの、蓮井さんへの想いが詰まった演奏です。
7月18日。
夕方、高橋さんは息を引き取りました。
蓮井さんの心の中には、いまも、高橋さんのピアノの音、叱咤激励の声が響いているといいます。
「どんなことがあっても歌い続ける」
蓮井さんは、高橋さんとの約束通り、これからも歌い続けると心に決めています。
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