2023年11月15日、あるニュースが飛び込んできた。

「沖縄県警察本部は沖縄の一等地の土地取引をめぐり、収賄側の那覇市議会前議長に5000万円のワイロを渡していたとして鹿児島県の無職、元総会屋・小池隆一容疑者(80才)を贈賄の疑いで逮捕しました」

筆者は耳を疑ったが、まさにニュースでアナウンサーが伝えた容疑者の名前は、かつて「第一勧業銀行」の弱みに付け込み、「400億円」を超える不正融資を引き出し、それを元手に大企業の大株主となり、株主総会を揺さぶった伝説の総会屋「小池隆一」だった。その「小池隆一」とはいったい何者だったのか、捜査資料などから「伝説の総会屋」の人物像を浮かび上がらせる。

背後に“昭和の黒幕”

かつて企業の株主総会は明らかに「総会屋」が仕切っていた。株主総会を混乱させたくない企業は、不祥事やスキャンダルを厳しく追及する「総会屋」を懐柔するために「賛助金」などを提供してきたのである。企業にとっては脅威となっていた。

「月末になると、大手証券や都市銀行の総務部門には、集金にくる総会屋の行列ができていた。総務部門はカネを現金で渡して、会社の交際費として処理していた」(元特捜検事)

そんな昭和、平成を象徴する戦後最大の総会屋事件の「主役」となったのが小池隆一だった。小池に怯えて利益供与を続けていた野村、日興、大和、山一の4大証券や第一勧銀は、幹部40人以上が起訴された。小池は1998年に「懲役9か月、追徴金約7億円」の実刑判決を受けて服役。その後は妻の実家がある鹿児島県で暮らしていると報じられていた。

小池隆一は見かけはどちらかと言うと、すらりとしたスマートなイメージだ。TBSの西川永哲記者はメディアで初めて小池の姿を映像で捉えることに成功した。その映像からも繊細そうで知的な表情が窺えるが、西川は風貌からは想像できない「総会屋」小池の「凄味」を感じたという。

「小池を撮影するために、六本木の事務所に現れる機会を待って、3か月間、ひたすら毎日通い続けた。そして接触をあきらめかけていたある日の夕方、突然、小池が駐車場に車のキーを手に持って現れた。すぐにカメラを脇に挟んで、必死で小池に近づいて『小池さんですか』と声を掛けた。
すると小池は『おまえ何やってんだ!』と凄んで振り向き、車を急発進させた。そのあと狭い道路をハイヤーで猛スピードで追いかけたが、完全に見失ってしまった。一瞬の出来事だったが、小池に顔を振り向かせて撮った映像はしっかり収録されていて、安堵感で一杯だった。のちに小池が逮捕され、各社の報道を見ると小池の映像を逮捕前に撮影していたのはTBSだけだった」

元特捜検事は小池について「アルコールは一滴も飲まない。タバコも吸わない、女性にも全く興味がない、ギャンブルもしない。それまでの派手な総会屋や暴力団のイメージとは違い、身体を鍛え、企業の決算書を深く読み込み、数字に精通するための勉強をしていた」と語る。

公判記録や関係者などによると、小池は1943年生まれで新潟県立賀茂高校中退後、飲食店勤務を経て、1968年頃に上京。刑務所の中で経済誌を読んでいるときに「武闘派」と言われた広島出身の総会屋集団「小川薫グループ」の存在を知り、小川の義弟の玉田大成に弟子入りしたという。そして1971年の王子製紙、1973年のトリオ、1975年のホンダなど大企業の株主総会に乗り込み、頭角を現わす。

なかでもロッキード事件当時、田中角栄の秘書が監査役に送り込まれていた「理研ビニル」の株主総会では、会社と田中総理の関係を攻撃し、威力業務妨害で逮捕されてしまう。しかし、逆にこの株主総会での実績は、総会屋としての小池の評価をますます高めたのである。

小川薫は当時、TBSのインタビューで小池の印象をこう語っている。

「静かで人の悪口は言わない。無駄な口もたたかない、余計なことも言わない。時間があれば勉強していた。人は遊んでいるけど、自分は勉強しているという感じだった。小池のやり方は正攻法、終始一貫、文書を交わして企業の痛いところを自分の勉強で、どんどん突いていた」

転機となったのが1982年10月の商法改正だった。利益供与罪が新たに設けられ、これにより企業側、総会屋の双方が刑事処罰を受けることになった。同時に総会屋排除の動きが強まり、約5,000人近くの総会屋が廃業したと言われる。

警察の取り締まりが強化され、総会屋への利益供与が禁止されると、小池も総会屋活動を一時、休止して企業の出方を見極めた。その間も企業の損益計算書(PL)や貸借対照表(BS)など数字の分析に磨きをかけ、まもなく活動を再開した。そして「武闘派」から「理論派」へ転身を図っていったのだ。

それまでのように恫喝するような戦法はとらず、企業への「スキャンダル攻撃」を封じ込めることにより、「与党総会屋」として信頼を得ていったのである。そのために使ったツールが企業への「詳細な質問状」であり、もう一つが「株主提案権」だった。

検察側は小池について冒頭陳述でこう指摘している。

「狙いをつけた企業の表裏にわたる情報を幅広く収集・分析し、他の総会屋に見られない緻密かつ膨大な質問状を作成して、株主総会前に密かに送りつけるなどの巧妙な活動をしており、各企業の総務担当者からは、行動力を伴う頭脳的な総会屋として恐れられていた」

元特捜検事は小池に影響を与えた大物総会屋として2人の人物を挙げる。

「小池は商法改正後も、保有していた企業の株は売却せず、むしろ買い増ししていたようだ。相談を受けた企業のために徹底的に尽くす『与党総会屋』となり、『株主総会は始まったときにすでに勝負はついている』と話していた。小池にこうしたやり方を指南したのが、児玉誉士夫に連なる大物総会屋、上森子鉄と木島力也の2人だった」

小池は「武闘派」小川グループを離れた後、師事した大物総会屋が2人いた。1人は前述の通り、小池と同郷の新潟出身の財界の大物フィクサー木島力也(1993年死去)で、もう一人は木島とも懇意で丸ビルに事務所を構え、三菱系企業の株主総会を仕切っていた上森子鉄(1990年死去)だった。 

上森は、1901年生まれの「大物与党総会屋」でフィクサーだ。「菊池寛」の書生を経て、旧文藝春秋社の監査役などを務め、外務大臣の藤山愛一郎とも親交するなど「表の顔」でも知られていた。上森は当時、4大証券の株主総会も仕切っており、やがて小池に株主総会の進行役を任せるなど小池を育てたと言われる人物だ。

「上森さんは三菱グループの株主総会を仕切っていた当時、三菱財閥創業家である岩崎家の食事会にも『総会屋』として唯一、招かれていた」(当時の顧問弁護士)

TBSの取材に応じる児玉誉士夫(1958年12月)
自宅で日本刀を見せる児玉(1958年12月)

小池が第一勧銀と4大証券の経営者を怯えさせ、約125億円(立件分)ものカネを引き出せたのは、その背後に上森子鉄と木島力也という2人の大物総会屋がいたからに他ならない。
さらにその上森と木島と深く結びついていたのが「戦後最大のフィクサー」「政界の黒幕」と言われた右翼の大物、「児玉誉士夫」だったのである。

「総会屋への利益供与事件は、戦後裏面史そのものである児玉誉士夫の延長線上にあった」(元特捜検事)

児玉は、海軍の軍需物資を調達する「児玉機関」を上海に設立して莫大な資産を形成、終戦直前に日本に持ち込んだとされる。戦後は、「A級戦犯容疑者」として巣鴨刑務所に3年間近く拘留されたが、アメリカの情報機関とのパイプを開拓し、政財界の黒幕として絶対的な影響力を発揮した。  

児玉は戦時中に築いた人脈を生かし、莫大な資産をバックに鳩山一郎が自民党の前身、自由党をつくる際に政治資金を提供するなど、政界や財界それに裏社会に至るまで、あらゆる情報に通じていたとされる。

児玉はTBSのインタビューに応じ、こう振り返っている。当時47歳だった。

「児玉機関は新聞社や雑誌、通信社にも多く送り込んでいた。占領地で軍事物資を集めるとともに諜報機関でもあった。満州からバンコクまで中国大陸全土をカバーし、船舶や膨大な倉庫、資材、工場を持っていた。兵器を製造する工場、油を作る工場、あらゆる仕事をやっていた。軍事資材を作るとともに大陸では最も大きな諜報機関だった。
(児玉機関の財産は)辻嘉六さん(立憲政友会の黒幕的な存在)に渡して、日本の新しい政党が生まれることをお願いした。私がもらったのは現金30万円です。(中略)
映画の“私は貝になりたい”を見て、涙が止まらなかった。巣鴨でこの映画のモデルになった人を知っている。戦争中に上官が部下を庇おうとしなかった。上官の命令によって人を殺した若い人たちが死刑になってしまった。巣鴨で死刑になった大半は、あれと同じ運命にさらされた。しかし、終戦直後の巣鴨に対する弾圧、憎しみというものはひどかった。国中の責任を一身に背負わされた」(現代の顔/昭和のインタビュー・児玉誉士夫) 

東京地検特捜部のかつての歴史は「児玉誉士夫」との戦いだったと言っても過言ではない。戦後の裏社会の権力者として「造船疑獄」「田中彰治事件」「平和相互銀行乱脈融資」など昭和の多くの政界疑獄には「児玉の影」があった。

特捜部はロッキード事件で、ようやく児玉を脱税で摘発し、検察vs児玉のかくも長き戦いは終結した。実はこのとき、上森子鉄も事情聴取を受けている。それから20年、児玉誉士夫の系譜を受け継いだ上森子鉄、木島力也、その弟子の小池隆一が再び、バブル経済の後始末を象徴する事件の「主役」として登場したのであった。

1984年に児玉が亡くなり、1980年代後半に入ると小池は木島力也らと「第一勧業銀行」や「野村証券」の株主総会の議事進行に協力。木島の口利きなどにより、両社から小池への利益供与が始まったのだ。

当時の関係者はこう語る。

「小池はバランスシートが読める総会屋と言われていた。数字にめっぽう強かったから、企業にすれば敵にまわすと非常に怖い存在だった。頭で攻めてきた」

小池は木島が亡くなった1993年以降も、木島の「遺産」を引き継いだ。その結果、第一勧銀や4大証券から利益供与を受け続け、大物総会者としての地位を築いたのである。

「小池の迫力ある発言、深い洞察力、不祥事に関する圧倒的な情報収集力が株主を惹きつけた。ひたむきな努力があったという。静かなカリスマ性があった」(元特捜検事)

検察側は裁判でこう指摘した。

「狙いをつけた企業の表裏にわたる情報を幅広く収集・分析し、ほかの総会屋にも見られない膨大な質問状を作成して、株主総会前にひそかに送りつけるなど巧妙な活動もしており、各企業の担当者からは行動力を伴う頭脳的な総会者として恐れられていた」

「総会屋」小池隆一 1997年

「総会屋」小池隆一が泣いた日

事件の渦中の1997年6月29日、第一勧銀の宮崎邦次元会長が自殺した。この出来事は、長期にわたって脈々と続いてきた闇の世界の深さを感じさせ、社会を震撼させた。

小池は、東京拘置所で取調中に、第一勧銀の宮崎元会長の自殺を知る。

取り調べをしていた特捜部の検事が伝えた。

「第一勧銀の宮崎が亡くなった。自殺したみたいだ」

小池は宮崎の訃報を聞いた瞬間、東京拘置所中に響くような大声を上げて泣いた。とめどなく涙が流れた。

小池はのちにこう語っていたという。

「検事さんに宮崎さんが亡くなったと聞かされて、急に涙が溢れてきて、もう止まらなかった。あれは一体、何だったのか、私にもわからない。もう生理現象としか言いようがない。(中略)宮崎さんが亡くなったと聞いたら、もう、胃がきりきりきりきり痛くてたまらなくなって、椅子から転げ落ちて、床の上にころがった。それで房に戻されることになって、私に万が一のことがあるんじゃないかということで、しばらく監視がついていた」(「虚業」小池隆一が語る企業の闇と政治の呪縛 七尾和晃)

小池は「宮崎元会長の命を奪ったことで、この稼業がつくづく嫌になった。総会屋、小池隆一は宮崎元会長とともに死にました」と話したという。総会屋という仕事に区切りをつけたのだ。

小池は5月15日に商法違反で逮捕されて以来、特捜部の取り調べに対し、「総会屋の師匠である木島力也に従っただけだ」として、否認を続けていた。

しかし、宮崎の死を聞いた小池は「このまま自分が、否認を貫くことによって、もし宮崎に次ぐ犠牲者が金融機関側から出ることは、耐えられない」と話したという。

特捜部は小池をさらに追及した。

「第一勧銀が無担保で融資をしたということは、銀行側の特別背任が成立する可能性がある。銀行側の特別背任が成立した場合、利益供与だけというわけにはいかなくなる。木島がすべてを計画立案して、木島が企業と交渉したと言っても、木島が死亡している以上、確認できないじゃないか」

すると小池は答えた。

「わかりました。銀行の方たちは何と言ってますか。彼らの調書に沿うかたちで、わたしの調書を整えて、作ってもらっても構いません」

第一勧銀・宮崎元会長の死をきっかけに小池は語り始めたのであった。

小池が勾留されていた東京拘置所(東京・小菅)

「立派な方が亡くなり、言葉もない」

金融・証券業界に激震を引き起こした総会屋「小池隆一」には実刑判決が言い渡された。多くの企業トップは既に退任するなど失脚し、刑事責任を問われていた。小池は、約1年半の審理では、理論派総会屋の雰囲気を漂わせ、冷静に対応していた。だが、やはり実刑判決を受けた瞬間は、目を大きく開き、動揺したように見えた。

当日、午前10時すぎ、ネイビーのスーツに身を包んだ小池被告は、肩を揺らしながら東京地裁104号法廷に入廷し、岡田雄一裁判長に一礼した。

岡田裁判長に「小池被告ですか」と尋ねられ「はい」と答えた。傍聴席の最前列の記者席には聞こえたが、声にいつもの張りがなく、かなり緊張した様子だった。

「被告人を懲役9か月 追徴金約6億9260万円」

実刑判決が言い渡された瞬間、小池はうなだれた様子だった。その後は着席して両手を前に組み、岡田裁判長が読み上げる判決理由に聞き入った。

東京地裁は判決で小池被告をこう断罪した。

「執拗に、本来ならば到底得られない利益を要求した悪辣な犯行。証券市場の公平性に対する信頼もいちじるしく傷つけた。与党総会屋として議事進行に協力する姿勢を示す一方で、(小池被告が)敵対的な行動に出た場合には、不測の事態が生じかねないと(相手を)危惧させた巧妙な犯行だ」

その一方で、判決は企業側の責任にも言及した。

「株主総会を短時間で平穏に終了したいという、安易な姿勢をあらためることができなかったため、つけこまれた面がある」

小池は顔に手をあて、やや落ち着かないそぶりだったが、最後まで着席していた。そして意外にも、小池はこの日のうちに控訴を放棄し、争うことをやめた。一方、検察側も求刑通りの判決だったことから控訴せず、一審で小池の有罪判決が確定したのであった。

筆者は1997年12月に始まった小池の裁判を傍聴していたが、小池は被告人質問に対し、終始落ち着いた口調だった。質問に対してときどき「そういうところでしょうかね」などと、小池らしい評論家のような口調を交えながら、企業と総会屋の関係について淡々と語っていた。4大証券に送りつけた「株主提案権行使」の通告については、「総会屋と会社の総務担当は持ちつ持たれつ」だと強調した。

「『ごみ箱に捨ててもらっていいよ』と断ったうえで、『企業の担当者は大変だ、大変だと言いながら、自分で小池を抑えたように振る舞えば、上司の覚えがめでたくなる。上を動かそうと踊らせようと自由だよ』と言った。総務担当への援護射撃のつもりだった」(小池の公判記録より)

公判中は冷静に答えていた小池が、言葉を詰まらせる場面があった。大物総会屋・木島力也との深い関係が指摘されていた第一勧銀の宮崎元会長の自殺に触れた時だった。うつむいてこう語った。

「立派な方が亡くなり、言葉もない。どんな罰をもってもわびようがない」

「総会屋を30年もやっている中で、感覚が世間の常識から離れ、まひしていた」

小池の弁護人はリクルート事件で江副浩正・元同社会長の弁護団長を務めた日野久三郎氏だった。長野県出身で司法研修所教官や最高裁刑事規則制定諮問委員などを歴任した大物弁護士だ。
反省の言葉を述べた小池被告に日野弁護士が「もう二度とやりませんね」と尋ねると小池は「当然ですね」と答えた。(敬称略)

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光

■参考文献
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
村串栄一「検察秘録」光文社、2002年
七尾 和晃「虚業」七つ森書館、2014年
立石 勝規「東京国税局査察部」岩波書店、1999年
大下英治「経済マフィア―昭和闇の支配者」だいわ文庫、2006年

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