仙台空襲では、仙台市内中心部の小学校も大きな被害を受けました。小学3年生で空襲を経験した男性がいま伝えたいこと、そして戦争を知らない児童が今感じることとは。

児童に伝える「仙台空襲」

仙台市の戦災復興記念館で行われた平和学習。市内4つの小学校の6年生200人が参加し、仙台空襲の被害や戦時中の学生たちの暮らしを学びました。

仙台市戦災復興記念館アドバイザーボランティア 及川節郎さん:
「これは仙台空襲を行ったアメリカのBー29戦略爆撃機です。アメリカ軍が日本を空襲で攻撃するために作った飛行機。長さ30メートル、皆さんの教室は8メートルですから教室4つ分…」

平和学習に参加した東二番丁小学校の6年生たち。毎年、仙台空襲があった7月10日に戦災復興記念館を訪れています。仙台市中心部に建つ東二番丁小学校。小学校の入り口には大きな木がたっています。

東二番丁小学校 飯野正義校長:
「仙台空襲によってこのクスノキは校舎とともに完全に焼失してしまった」

79年前の空襲で、校舎が焼失。クスノキも焼けましたが、終戦の3年後に再び芽吹き、街の戦後復興と共に大きく育ってきました。

東二番丁小学校 飯野正義校長:
「日本は幸いにして、平和な時代を過ごすことができていますが、この木を見るたびに、戦争を知らない子どもたち、私たちの世代も平和の大切さについてはすごく強く感じるものがあります」

空襲で失われた児童23人の命

1945年7月10日未明、仙台の上空にはアメリカ軍の爆撃機「Bー29」123機が飛来して焼夷弾爆撃を行い、1399人が犠牲になりました。

東二番丁小学校では児童23人の命が失われました。

東二番丁小学校 飯野正義校長:
「こちらが平和観音像です。空襲で亡くなった23名とその後、交通事故で亡くなった4名とあわせて27体ありますが、裏にそのおひとりおひとりの名前が書かれております」

悲劇を伝える平和観音像。その一つに書かれている「野村浩嗣」さんの名前。

この野村さんと同級生だった人が仙台市内にいます。

親友が天に昇ってしまった

空襲当時、東二番丁小学校3年生だった田島稜威雄さん(88)です。

田島稜威雄さん:
「私はこの空襲で一番何が残っているかというと、最も親しい親友を空襲で亡くしているからね」

野村さんとは、空襲の前日まで一緒に遊んでいたといいます。

田島稜威雄さん:
「(空襲の)前の日に一緒に遊んで『あしたまた遊ぶべな』と言ったのが最後。本当に仲のいい友達でね。そういう風にして遊んでいたやつが、一晩で空襲で、天に昇ってしまった」

仙台駅前に住んでいた田島さんは、当時、空襲警報の後、祖父と姉、弟の4人で駅の東側に逃げ助かりました。

田島稜威雄さん:
「みんなぞろぞろ駅のほうに行くんですよ。その時私は、初めて空襲っていうのが分かった。駅に入って、そしたらにぎやかになってきたから、今度は線路に飛び降りて、線路を超えて東七番丁(通り)のほうに逃げたんだね」

避難先から見た地獄の光景

命は助かったものの、避難先から見た景色は忘れられないといいます。

田島稜威雄さん:
「しばらくしたらね、飛行機がこう、東のほうに、Bー29がね。でかいんだよね、何機か飛んでいく。榴岡に登った時にね、北のほうを見たらね、全部こう火の海なんですよ。(祖父から)こういうのは二度と見られないんだから覚えておけよと言われた。本当に火の海ですよ」

空襲については、市内各所につくられていた簡素な防空壕が人的被害を拡大させたと言われています。

また、当時国は、避難ではなくバケツリレーなどによる消火活動を奨励していました。

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