大阪大空襲から79年。70歳を過ぎ、経験を語り始めた女性の証言です。
大阪市にある崇禅寺。この寺には79年前、大阪大空襲で亡くなった人々が数多く運ばれました。寺には犠牲者を刻んだ碑があり、6月8日に慰霊祭が行われました。
戦争末期の1945年3月から8月にかけて、アメリカ軍は大阪への無差別攻撃を繰り返し、市民ら計約1万5000人が犠牲となりました。犠牲者には、日本で暮らす朝鮮出身の人たちも多く含まれているとされています。
滋賀県野洲市に住む在日コリアン2世の鄭末鮮(チョン・マルソン)さん(90)。11歳の時、6月7日の大阪大空襲で家族を失いました。
(鄭末鮮さん)「もう大きな音が、ドカーンと。地球がひっくり返ったかなと思ったくらい。焼夷弾か油のかたまりが、真っ黒の煙が火がついて1回でどっと雨のように降ってくるねん。それが体にひっついたら焼けんねん」
父親と妹は無事でしたが母親と3人のきょうだいは助かりませんでした。
(鄭末鮮さん)「父親が『はぐれてそれっきりわからんくなった』『あの近くにいっぺんいってくる』と。…ほんで…その鳥居の近くに、母親と兄と妹と弟と…」
鄭さんは大阪大空襲の記憶を長年、封印してきました。在日コリアンに対する差別への恐怖、そして何よりつらい経験を受け入れきれなかったといいます。
しかし70歳を過ぎ、戦争の悲惨さを知ってもらおうと在日コリアンであることを公表した上で戦争体験を語り始めました。
6月1日は自分の戦争体験を基にした舞台「キャンパー」が上演され、大勢の観客を前に思いを伝えました。
(鄭末鮮さん)「本当はもう、二度とこういうことを思い出したくないし、つらいことを口に出したくないけれど、やっぱりそれではいかんなと思って。こういうことがあってはいけない、と思ってほしい」
こうした活動を続ける中、2022年、崇禅寺の慰霊碑に亡くなった家族4人の名前が刻まれました。4人は「身元不明者」とされていましたが鄭さんの活動をきっかけに寺などが調べ、ようやく身元がわかったのです。遺品や写真は残っておらず、鄭さんにとってここが唯一、4人とつながれる場所になりました。
(鄭末鮮さん)「親やきょうだいがいて触れられたらといつも思います。戦争してこういう悲しい思いをする人を増やして、何が欲しいのかなって私、いつも思うんですよ。戦争ほどひどいことはないわ」
大阪大空襲から79年。鄭さんはこれからも忘れられない記憶を語り継いでいきます。
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