5月27日、兵庫県芦屋市にある警察学校で、ある講演会が行われていました。その壇上で話をしていたのは堤敏さん(65)です。
2010年10月、神戸市北区の路上で、堤さんの息子、高校2年の翔太さん(当時16)が何者かに首などを何度も刺され、殺害されました。その後、犯人逮捕につながる有力な情報がなく、捜査は難航。
堤さんたちはビラ配りなどを行って情報提供を呼びかけました。そして事件から10年以上たった2021年、事件当時17歳だった男(31)が逮捕されました。事件当時未成年であったことから、少年法に基づいて被告は匿名で裁かれ、一審で懲役18年の判決が言い渡されています。
「うつ伏せに倒れた息子の手…握ると冷たかった」
27日の講演会で堤さんは、まず、事件発生当時の現場の状況を語りました。
(堤敏さん)「息子はその当時仲の良かった女子生徒と2人で、家の近所、住宅街の中で2人並んで座って話をしているところを、刃物を持った犯人に突然襲われて、頭や首、肩、胸、背中など上半身を複数箇所刺されて殺されてしまいました。その刃物の先は肺にまで達していました。犯人は、息子に馬乗りになって刃物をふり上げていたと」
その後、翔太さんは現場周辺の人に助けを求めていたといいます。
(堤敏さん)「歩いている間に数回『助けて助けて』と声を出しています。もう潰れた肺で呼吸もできない中、ふらつきながら、精一杯助けを求めて叫びながら歩いたんだなと」
知らせを受け駆け付けた父親…何度も息子の名前を叫び続けた
敏さんは当時、翔太さんの友人が自宅を訪れたことで、事件を知ったと言います。
(堤敏さん)「全くピンとこない。もう何を言っているのかわからない。現場に駆けつけ、息子を見たときも、『何これ、どうなってんの?』と全く現実感のないもので、理解できない。『夢でも見てるん違うの』と、そう思うぐらいでした。事件の知らせを受けて現場に駆けつけたのは午後11時ごろでした。まだ救急車も来ていない中で、息子は交差点の横断歩道の上に1人で救命措置もされずに、うつ伏せに倒れていました。何回も何回も『翔太、翔太』と名前を呼んで、その声がだんだん大きくなって、叫ぶようになっていました」
現場に着き、翔太さんに駆け寄った敏さん。今でも当時の体の温もりなどは鮮明に覚えていると話します。
(堤敏さん)「左手を上に上げて、顔を左側に向けて、うつ伏せに倒れている息子のその手を握ると、指先は冷たかったんですね。もう手を握ったとき、首筋を触ったときの感触や温かさ、それは今でも私の手の中に残っています」
現場付近には、事件の凄惨さを物語るかのように周辺に血痕が広がっていました。
(堤敏さん)「私は息子の左肩辺りから流れ出た血を見ていました。約1.5m~2mぐらい離れた場所にあるマンホールに向かって流れていたんです。幅は1センチ~2センチぐらいのものでした。徐々に血の気が引いていくっていうか、膝ががくがく震えてきて、内臓がぎゅーっと締め付けられるような、もう言いようのない感覚でした」
意識戻らぬ息子に『お父さん、翔太も休ませてあげてよ。寝かせてあげて』
病院へ搬送された翔太さん。医師らによって懸命に心臓マッサージなどが行われ、心肺蘇生を試みられます。しかし…
「医師から『脳波に反応がないんですよ。心臓マッサージをやめていいですか?』と聞かれました。私は『そんなんあかんでしょ、続けてくださいよ』と、言いかけた時、横から娘が声を詰まらせながら『お父さん、翔太もう休ませてあげてよ。寝かせてあげてよ。頑張ったんやから、この子すごい頑張ったんやから』。そう言いました。帰る車の中で隣に座っていた家内がずっと一点を見つめて、『何でなん?何で翔太なん?』と、何回も何回も繰り返し言っていました。私は私でもう感情が抜け落ちたようになって、呆然としているだけと。怒れない、泣けない、涙も出てこない。何をどう理解して、どう受け止めたらいいのかわからない。何が起こったのか。何が起こっているのか。何もかもが全くわからない。そんな状態で、朝を迎えました」
自宅に無言で帰宅した息子に「ごめんなとしか言えず、それが精一杯だった」
翔太さんは、事件の翌日、10月5日、7時間にも及ぶ司法解剖を終え、自宅へ無言で戻ってきました。上半身は包帯で覆われ、顔と手首から先しか出ていない状態だった翔太さん。縛られていた包帯を外すなどして、家族らは一晩中、将太さんに寄り添い続けたと振り返ります。
(堤敏さん)「リビングの真ん中に敷いた布団に息子を寝かせたときに、私は初めて涙が出ました。もう心の中では『翔太おかえり。痛かったな、怖かったよな、苦しかったな、辛かったよな』と色々な思いを持っていたんですけど、『お父さんお前守ってやれんかった、ごめんな』、それも言葉にならずに『ごめんな』としか言えませんでした。それが精一杯でした。(翔太さんの)手を握って温もりを伝えたら、指を動かしてくれるんじゃないかと。頬を温めたら、にこっと笑ってくれるんじゃないのかと。手や顔をなでたりさすったりしながら一晩中話しかけました。しかしそれは叶いませんでした。触った時は生きている時の温もりはもうなくて、触った瞬間にドキッとする独特の冷たさだけが伝わってきました。この夜が、私達家族が息子の死というもの、翔太の死というものを受け入れさせられた時間だったのかなと思います」
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