かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。言ってみれば暴力団の「周辺居住者」である。企業の弱みにつけ込み、株主総会に乗り込んで経営陣を震え上がらせる。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。

昭和からバブル期を挟んで平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に野村証券など4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していた戦後最大の総会屋事件。

のちに捜査は政治家への利益供与、そして大蔵省接待汚職事件に発展した。
第1回は、まだ発足して間もない「SEC」(証券取引等監視委員会)が、どうやって業界最大手“ガリバー野村証券”に切り込むことができたのか、水面下でいったい何が起きていたのか、今だからこそ明かされる関係者の証言をもとに、捜査の舞台裏の一端を描く。

素性が分からない口座

それは阪神淡路大震災、オウム真理教事件が前年に発生、不安な空気がまだ日本を包んでいた1996年夏のことだった。
東京地検特捜部で数々の経済事件を手掛けてきた粂原研二(32期・現弁護士)は、「SEC」証券取引等監視委員会特別調査課の特別調査管理官として、のちに戦後最大の総会屋事件、日銀・大蔵省接待汚職に発展するきっかけとなる端緒をつかんだ。その情報はある日、SEC事務局総務検査課の職員からもたらされた。

 「野村証券に不審な口座が・・・」

粂原は1994年7月に特捜部から「SEC」に出向し、1997年4月、特捜部に戻るまでの約2年半、証券取引に絡む不正の調査にあたっていた。
「証券取引等監視委員会」は、1991年の「第一次証券スキャンダル」をきっかけに、株取引の不正を監視する「市場の番人」として、1992年7月に発足した。
アメリカの「SEC」をモデルにしているが、違反者に対する逮捕権などはなく、「インサイダー取引」や「株価操作」を取り締まる「強制調査権」を持ち、違法があれば「東京地検特捜部」などに告発するのが役割だ。
「SEC」の初代委員長には “伝説の元検事総長” 吉永祐介(7期)と同期の水原敏博(7期)が就任した。
水原は特捜部出身、1960年安保闘争で死亡した樺美智子さんの捜査や「共和精糖事件」や「日通事件」などを担当。とくに「協同飼料事件」では財政経済班の主任検事を務め、特捜部が初めて株価操縦にメスを入れたことで知られ、「SEC」の委員長にはうってつけの検察OBだった。筆者らは「ビンパクさん」と呼び、ざっくばらんな讃岐弁で饒舌、筋を通すタイプだが、怒ると怖かった。

「SEC」は今では「SESC」とも呼ばれ、大所帯になっているが、当時はまだ大蔵省の付属機関で、特別調査課と関東・東海・近畿ぞれぞれの財務局の特別調査官を合わせても実働部隊は40人程度だった。メンバーは国税局、公正取引委員会、会計検査院、大蔵省、財務局等からの出向者の寄せ集め。特捜部で言う「取り調べ」に相当する「質問調査」の経験者は、国税局査察部からの出向者など、わずかだった。そうした中、特別調査課には、管理官として粂原ら検事が2人出向し、調査全般の指揮や指導、告発先の東京地検特捜部等との連絡調整などに当たっていた。

そんな新しい組織だったが、画期的な事件に積極的に挑戦していた。たとえば、「ギャンブル情報誌にウソの株価情報を掲載した占師」に証券取引法の「風説の流布」の適用したり、「医薬品による副作用で死亡した事実」を事前に知った医師が、株の空売りで儲けたインサイダー取引事件など、新しい切り口で証券取引法を駆使し、多くの事件を特捜部に告発していた。なかでも「日本織物加工」のM&Aをめぐり「著名な弁護士」が知人名義で同社株を売買したインサイダー取引事件は最高裁判所の判例にもなった。

「SEC(証券取引等監視委員会)」発足    「SEC」初代委員長 水原敏博(7期)

1996年6月のある日、「SEC」事務局総務検査課の取引審査係から粂原に、こんな報告があった。

「業界トップの野村証券が、素性の分からない『小甚ビルディング』という不審な口座に利益提供しているかもしれません。『富士銀行株』の取引が利用されているようです」

取引をたどってみると1995年3月15日、野村証券から富士銀行株750万株が売り出され、株価は1900円台から1800円台まで急落した。同時に野村証券の自己売買から400万株の買い注文が出されて、売買が成立。株価は底値をつけた後、再び上昇し、野村証券は50万株を売って、一気に約4000万円の利益を得ていた。
この買い注文と同時刻に「小甚ビルディング」から400万株の買い注文が入った記録があり、野村が自己売買の利益を「小甚ビルディング」の口座に付け替えていた疑いが濃厚だった。本来、時間差があるはずの取引伝票が同時刻だったり、伝票の筆跡が違うなど明らかに不自然だった。

そしてこの口座「小甚ビルディング」を調べてみると・・・

「『小甚ビルディング』の商業登記事項証明書や役員の戸籍などを調べると、この会社の親族に『総会屋』がいることがわかった。『小甚ビルディング』は、古いビルの一室にあり、年配の男がひとりぽつんと机に向かっているだけで、とてもそんな多額の資金を持っているようには思えない会社だった」(粂原)

「総会屋」とはあの伝説の与党総会屋、「小池隆一」であることが判明し、「小甚ビルディング」というのは、小池の実弟の会社名義の口座だったのだ。事実上、小池本人が管理していたことも後に明らかになった。
つまり、業界トップの“ガリバー”野村証券が、反社会勢力の「総会屋」小池隆一の親族の口座に、利益供与をしていたという信じがたい事実だった。

「総会屋」小池隆一(1997年)       実弟名義の「小甚ビルディング」

「千代田証券事件」がヒント

さっそく粂原らは野村証券だけでなく日興証券、大和証券、山一証券にも「小甚ビルディング」や小池隆一関係の取引口座がないかどうかを照会、さらに銀行口座を確認するなど、ねばり強く資金の流れを追った。
その結果、総会屋「小池隆一」が、野村証券など4大証券だけでなく多数の上場企業の株式を大量に保有し、その資金は、トップバンクの「第一勧銀」からの「融資」の形で調達していたことが判明した。そうした大株主の立場で金融機関に圧力をかけていた。「小甚ビルディング」は、その小池隆一に利益を流し込むための「ダミー会社」だったのだ。

野村証券は自己売買によって得た利益を、あたかも小池側から委託注文(直接注文)を受けた取引であるかのように装い、「小甚ビルディング」に利益を付け替えて提供していた。もちろん、こうした「利益の付け替え」は証券取引法で禁止され、「総会屋への利益供与」は商法違反にあたる。

粂原ら「SEC」がこの「付け替え」の手口を解明できたのは、実は過去のある事件がヒントになっていた。その事件とは、これより前に告発した中堅証券会社の「千代田証券事件」だった。この事件は顧客からの要求を受けて、千代田証券の幹部らが「損失補てん」を行っていたもので、その際に同じ手法が使われていたのである。手口としては、千代田証券が購入した「値上がり株」を、最初から顧客が購入したように装う「付け替え」が行われており、操作にはコンピューターが使用されていた。

「取引の市場となる東京証券取引所との交渉に、現場が苦労しながら『自己売買を委託取引に付け替える不正』を解析するノウハウを得た」(粂原)

告発された千代田証券(1995年12月22日)

それはどんなノウハウだったのか、捜査の裏側を聞いた。

「証券会社内のルールで、『自己売買』の注文を出すときには、たとえば「1」と入力し、『委託取引』注文を出すときには、「2」と入力するように定められていたとする。
『東京証券取引所』のホストコンピュータ上の当該取引の記録が「1」であるのに、『証券会社』の記録だけが、『委託取引』を示す「2」に変わっているのはおかしい。同一の取引にもかかわらず2通りに注文がだされているのは「付け替え」の痕跡であろうと。つまり、東証の記録は事実であって、変えられないため、やはり『証券会社』側の記録が改ざんされた疑いが強いということになる」(粂原)

当時、東証のホストコンピュータ上には、一つの取引注文につき何十桁もの数字が並んで表示されており、その数字の配置によって銘柄、数量、「売り」か「買い」かの区別、「委託取引」なのか「自己取引」なのかの区別、金額などが分かるようになっていた。
そうした数字をひとつひとつ分析することによって、不正な「利益提供」の仕組みを解き明かしたのだ。「SEC」が独自に手掛けた「千代田証券事件」の経験があったからこそ、実を結んだ調査と言える。

しかし、「SEC」のチームはこうして野村証券による利益提供の突破口を次々に切り開いていく中で、組織としてクリアしなければならない、大きな課題にも直面していた。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

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