「SEC」証券取引等監視委員会が水面下で、野村証券の調査に着手して数ヶ月後の1996年9月4日、あるスクープ記事が司法記者クラブの報道各社をざわつかせた。
「業界最大手『野村証券』が、総会屋に巨額損失補てんか」
野村証券が「総会屋」のダミー口座を通じて、数億円の損失の補てんを行い、同社幹部らが「SEC」証券取引等監視委員会の事情聴取を受けているとの内容だった。
「総会屋」とは総会屋・小池隆一のことで、口座は小池の実弟の会社名義であった。
そんな中、不正を詳しく知るという野村証券元社員から生々しい内部告発が寄せられた。
メディアも気づき始めた
「SEC」が極秘で内偵を進めていた情報をスクープしたのはブロック紙の「北海道新聞」だった。同紙は地元では圧倒的に強いが、中央省庁は記者の数も限られ、「SEC」や検察庁をカバーする常駐の司法担当記者もいない中、大マスコミに先駆けて伝えたのであった。
「北海道新聞」のスクープは、ちょうど「SEC」から東京地検特捜部に事件の概要が、報告された前後のタイミングだった。
報告を受けたのは、東京地検特捜部筆頭副部長の 笠間治雄(26期)だった。特捜部は当時、石油ブローカーから政官界へのヤミ献金疑惑「泉井石油商会事件」の捜査に力を注いでおり、当面、野村証券の件は「SEC」から随時、状況を聞きながら、推移を見守った。
泉井事件は「三菱石油」から石油ブローカーの泉井純一に流れた資金が、政官界工作につかわれていた疑いがあり、笠間副部長ら特捜部は、大蔵省や通産省への接待、さらにバッジ(国会議員)の職務権限に絡む贈収賄事件への展開も視野に入れていた。
泉井事件の主任検事は、「リクルート事件」でブツ読みから「NTTルート」の贈賄工作につながる証拠を見つけた内尾武博(30期)だった。
内尾の上司で、野村捜査班を統括していたのは「特殊直告1班」副部長の笠間だった。笠間も「リクルート事件」の捜査や公判を担当、一審無罪となった藤波孝生元官房長官の控訴審判決で控訴趣意書の作成に関わり、「逆転有罪」を勝ち取った。「大蔵省接待汚職」の翌年、1999年に特捜部長に就任、地下経済のフィクサーと呼ばれた許永中と元特捜検事・田中森一を「石橋産業手形詐欺事件」で摘発、「KSD事件」では副部長の佐々木善三(31期)に半年間にわたって内偵させ、村上正邦元労働大臣を摘発。笠間は決して怒らず、驕らず、物腰柔らかい「現場派のエース」で記者にも人気があった。大阪地検特捜部の不祥事を受けて、検察の建て直しを託され、法務省勤務の経験のない検事としては初の検事総長となる。私学出身者の検事総長も戦後初だった。
「泉井石油商会事件」の捜査が終結すると笠間は、野村証券、第一勧銀の総会屋事件を副部長として指揮し、その後の「大蔵省接待汚職」につながる捜査の道筋をつけ、1997年9月、それまで松尾次席検事が兼務していた東京地検特別公判部長に栄転、「特殊・直告1班」の副部長を山本修三にバトンタッチした。
野村証券元社員が内部告発
全国紙やテレビなど大手メディアは「北海道新聞」のスクープのあと4ヶ月間、鳴りを潜めていたが、1996年の大みそか、「朝日新聞」が一面トップで満を持してこう報じた。
「野村証券、総会屋親族企業に利益供与か」
大手メディアがようやく参戦した。「北海道新聞」は、これまで沈黙していた全国紙が「後追い」したことに安堵したかも知れない。
朝日新聞など全国紙は通常、勝負ネタを元日の朝刊一面トップに打っていたが、この頃から「前倒し」で年末に展開するケースが増えていた。朝日新聞に続いて、年が明けた1997年1月8日、月刊誌に野村証券元社員の内部告発が掲載された。
「《特別手記》野村証券『利益供与疑惑』の真相 『不審の口座』はこうして運用された」
野村証券幹部が総会屋の親族口座に利益を付け替え、「VIP(重要人物)口座」と呼ばれる特定顧客を優遇している。これは商法違反の「利益供与」にあたるとの内容だ。関係者によると、野村証券は出版社に「事実無根」と発行差し止めを申し入れたというが、記事は予定通りに掲載された。
特捜部や関係者によると、この野村証券社員(当時)の内部告発のきっかけはこうだ。
彼は不正取引を監視する法人営業管理部にいた1993年のある日、「小甚ビルディング」という聞き慣れない口座に、いかにも不審な取引があることに気付き、「第一企業部」との定例会議で上司に報告した。「第一企業部」に開設されたばかりという、その口座の取引記録を見ながら言った。
「こんな下落相場が続いているのに、毎回必ず利益が出ているのは不思議ではないでしょうか」
さらにその日の取引は、一日の値動きが激しく変動し、自己売買による買い注文と、「小甚ビルディング」側の買い注文が同じ価格で入っているなど明らかに不自然だった。
同じ法人営業管理部の次長も質問した。
「商業登記簿によると資本金2000万円、同族企業の不動産会社でしょうか。規模からは、とうてい第一企業部の顧客とは思えませんが、株式公開する予定はあるのでしょうか」
「第一企業部」は企業が株式を店頭公開するための助言などがメインの業務で「小甚ビルディング」のような上場の見込みがないような会社の取引は異例だった。
社員はさらに補足した
「顧客がまとめて5億円を運用したいと言ってきたそうですが、通常は1億円づつ5銘柄に分散して勧めるのではないでしょうか」
つまり出来高が少ない株に、5億円を1銘柄に一気にぶち込むような一点買いの一任勘定はある意味、意図的に株価を上げてしまう株価操作の恐れがある。一方で、確実な利益が出ていた。
そのとき「第一企業部」の部長が割って入った。
「この口座は例外だから・・・実は株式担当のM常務に頼まれて開設した口座で、普通のお客さんと違うので、何も見ないで聞かないでくれ」
不可解だった。社員は「株式担当のM常務がやっていることなので、第一企業部に何の権限もない」と受け止めた。
しかも、「小甚礼ビルディング」の売買は野村証券による「一任勘定取引」だった。「一任勘定取引」とは、銘柄選択から決済までを、顧客がいちいち指示するのではなく、同社に一任する取引だ。もし損失が生じた場合には、これを補てんするため、自己取引で得た利益を「小甚ビルディング」の口座に付け替えるというものだ。
証券会社にとっては自由に売買ができるため、手数料を稼げるメリットもあったが、証券取引法で禁止されていた。
社員は野村証券を1994年に退職、TBSの独自インタビューにこう語っている。
「この口座だけは、全戦全勝、存在自体を口外するなという雰囲気があった。取引は、客が売り買いしたように装うため、事後に伝票を差し替えるやり方、これは“花替え”と呼ばれていた。口座の管理はF総務担当常務、売買の指示はM株式担当常務が直接出していた。
なので私の受けた印象では、指示を受けた現場の口座担当者もどういう目的で行われていたのか、知らなかったと思う」
彼はのちに野村証券元社長の判決後に「野村証券はもともと悪い会社ではなかった」と述べ、会社にも愛着を持っていた。彼は不正の申告に対して、会社が認めて社内の自浄努力、企業の力で不正を摘んでいくガバナンスの構築を訴えたかったのである。しかし、当時は内部通報を行ったものを保護する「公益通報者保護法」もなく、不正の告発はやりにく環境であった。この法律が施行されるのは約10年後の2006年になってからである。
当時、元社員を説得し、インタビューを行った西川永哲記者(TBS)は振り返る。
「自分の勤めている会社を内部告発するということは、当時は大変なことだったと思う。世間もまだ内部告発に対して冷たい時代で、社内では不遇だった。極度に汗びっしょりになりながら、野村証券が長年続けていた不正を語ってくれた。手紙のやりとりもしていたが、彼が一番言いたかったことは、構造的問題なのに個人の犯罪に矮小化されてしまうことへの強い危惧だった」
その後、年が明けた1997年3月6日、これまで一貫して疑惑を否定し続けていた「野村証券」が突然、不正を認める「記者会見」を開いた。そしてこれが転機となり、事件は急展開を見せる。特捜部は捜査を加速させ、「SEC」とさらに緊密に連絡をとりながら、“ガリバー野村証券”に対して、いつ強制捜査に踏み切ることができるのか、これまでの「SEC」の調査や特捜部の参考人聴取の内容など証拠関係を検討しながら、着手のタイミングを見極めていくのであった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◼参考文献
村山 治「特捜検察vs金融権力」朝日新聞社、2007年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
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