33年前の1991年6月3日、43人の死者・行方不明者を出した長崎県雲仙普賢岳の大火砕流惨事。NBCには、報道カメラとは別に、ラジオスタッフが撮影した大火砕流発生前の上木場地区の様子や、ふもとを襲った土石流、大火砕流惨事の翌日の島原市内の写真が残されています。写真を通して《災害発生当時の空気》に迫ります。
43人の死者・行方不明者を出した1991年6月3日の大火砕流。
NBC取材クルーの音声:
「岩永さん飛び降ります。はい分かりました。逃げろって!」
大災害はこれ以前から形を変えながらふもとの街へと迫っていました。
大火砕流の11日前の1991年5月23日、NBCラジオのスタッフが、普賢岳のふもとの島原市の水無川中流域で撮影した写真です。普賢岳山頂に溶岩ドームが出現した3日後の様子です。
そして、この翌日からは《火砕流》が発生します。この頃、水無川では土石流が頻発していました。
大量の火山岩や灰で“土石流”が発生
流れ下ってきた巨大な岩は大型トラックの荷台を占拠するほどの大きさでした。
川筋は何かが暴れまわったような状態になっていました。
写真には島原市北上木場にあった農業研修所も映っていました。撮影されたのは1991年5月21日。研修所の前の畑には葉タバコが育っています。
1991年6月3日午後4時8分 大火砕流発生
《大火砕流》発生した6月3日、北上木場農業研修所には消防団員やマスコミ、そして避難の呼びかけで通りがかった警察官がいました。
大火砕流発生時のニュース映像(1991年6月3日):
「今、我々のいるところまで猛烈に火砕流が迫ってきています。これは危ない。ダメだ、逃げよう。逃げよう。これは逃げなきゃ。来るよ、来る、来る…」
6月3日午後4時8分に起きた《大火砕流》は到達距離も、その大きさも、それまで起きていたものとは全く違っていました。
北上木場農業研修所では5人の遺体が発見されました。ここでやけどを負い、搬送先の病院で亡くなった人もいます。
農業研修所の跡地には大火砕流の恐ろしさを今に伝えるものが残っています。塩化ビニル製のパイプです。
NBCに残る写真には、かつて農業研修所で排水管として使われていた同じパイプが映っています。
火砕流の熱をうけた表面には亀裂が入っています。今も同じ場所に残る「大火砕流の証人」です。
当時の写真には横に立っていた電柱も映っています。
いまも残された電柱には、火砕流が来た方向の表面に《高熱をうけた跡》があります。
町中に降り積もった大量の火山灰
大火砕流を機に島原の空気は一変しました。大火砕流翌日。島原市役所から見た風景です。
いつ終わるとも知れない災害の中で島原から離れる人たちも後を絶ちませんでした。
《降り積もった火山灰》で島原には灰色の景色が広がっていました。
普賢岳災害は大火砕流の6月3日だけではなく、その後、範囲を広げながら噴火活動がほぼ停止する1995年まで4年間、続くことになります。
島原市では6月3日を「いのりの日」として普賢岳の大火砕流で犠牲になった人々を慰霊し、災害の教訓を後世に伝えていくことにしています。
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