岡山の武将・武士といえば…宇喜多直家や池田光政などいますが、今回紹介するのは瀧善三郎(たき・ぜんざぶろう)名前を聞いた事はありますか?世界にその名を轟かせた武士で「ラストサムライ」とも呼ばれています。今、善三郎の故郷・岡山ではその功績を称えようと新たな動きも。果たして善三郎とは何者なのか…足跡を辿りました。

岡山の市街地を見渡す場所にひっそりとたたずむ墓。ここに眠っているのは瀧善三郎。30歳の若さでこの世を去った備前岡山藩の武士です。

(善三郎のひ孫・瀧正敏さん)
「見事な切腹でしょうね、いわゆる『ラストサムライ』の名にふさわしい」

瀧善三郎が生まれたのは今から約190年前、岡山市北区の御津金川。幕末、善三郎は岡山藩で鉄砲を扱う部隊で隊長を務めていました。当時、旧幕府と明治新政府の間で緊張が続く中、1868年、新政府から兵庫県の西宮での警護を命じられ、そこへ向かう道中に事件は起きました。隊列が神戸三宮神社の近くに来た時、フランスの水兵が岡山藩の行列を無理やり横切ろうとしたのです。

この時代、侍の隊列を横切るのは御法度。善三郎は横切るフランスの水兵を止めたものの水兵たちはこれに応じず銃撃戦へと発展します。さらには、この件に乗じてイギリス・フランスなど6か国が新政府に抗議文を出し外交問題へと発展したのです。善三郎のひ孫にあたる正敏さん(85)と事件の起きた神戸を訪れました。

(ひ孫・瀧正敏さん)
「ひいじいさんが、そんなことをやったというのは聞いたけれども、もっと深い意味があって、まさに日本を救ったという」

新政府にとって初めてとなる外交問題。事件で死者が1人も出ていないにも関わらず諸外国の要求は「新政府の謝罪」と「責任者の処刑」、理不尽で重いものでした。こちらは善三郎が切腹した場所の近くにある慰霊碑です。慰霊碑の側には「神戸事件の犠牲者」と記されています。

作者は不明ですが善三郎の切腹の様子を描いたとされる絵が神戸市内の会社に残されていると聞き訪れました。

(ひ孫・瀧正敏さん)
「感慨深いですね…満30歳。当時の武士はいつでも死ぬ覚悟ができていますからね。平然と…それはよくわかりますね、表情からみても」

善三郎は事件の責任を1人で背負ったのです。

(ひ孫・瀧正敏さん)
「死刑を要求して、死刑というのは彼らのイメージは『ギロチン』だったわけですよ。ただ何の作法もなく首を切る、それをイメージしていたら、とんでもない。短刀を刺して右へずっと引いて最後は上げる、武士道に乗っ取った、正式の儀式で切腹した」

善三郎の堂々たる最期は外国に衝撃を与えました。善三郎の死によって事件は収束。この一連の出来事は後に「神戸事件」と呼ばれています。当時は欧米諸国がアジア各国を侵略していた時代。

もし、「善三郎の死」がなければ神戸の街は香港やマカオのように植民地になっていたかもしれないと言われています。命をかけて外交問題を解決した善三郎は世界的ベストセラー新渡戸稲造の「武士道」で触れられていて、世界中の人々の記憶に残り続けています。

(ひ孫・瀧正敏さん)
「日本の文化というか、そういうものは欧米にはないですから、武士の精神も含めて、強烈に印象に残ったんでしょうね、欧米人にとっては」武士の時代が終わりを迎える最中、命をかけて国を救った善三郎を「ラストサムライ」と称え、顕彰しようという動きが岡山で始まっています。

(劇団歴史新大陸・代表 後藤勝徳さん)
「あまりにも知られていなさすぎるので、同じ岡山県人としては見ていられないというか、やっぱりこの人のことを皆に知ってもらわないといけない」

後藤さんが代表を務める劇団は、来年ハレノワで善三郎をテーマにした舞台を上演する予定です。さらに、月刊小説誌では善三郎をモデルとした作品の連載も始まっています。

墓石には善三郎が切腹を前に詠んだ辞世の句が記されています。

(ひ孫・瀧正敏さん)
「きのう見し夢は今さらひきかえて神戸の浦に名をやあげなむ」「昨日まで見ていた平和な日本の夢はもう続きを見ることはできないが、せめて神戸の海に自身の名をそっと流してゆこう」という意味です。(後藤さんの解釈)

日本を救ったラストサムライ瀧善三郎。世界に侍の覚悟を示した岡山の武士が再び脚光を浴びようとしています。

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