11月、22年間の現役生活に幕を下ろした元福岡ソフトバンクホークスの和田毅さん。
このほど、ふるさと・島根県出雲市に帰り、自らの名を冠した野球大会などに参加しました。
マウンドを降りた和田さんの地元への思いと自身の未来予想図は。

和田毅さん
「本当にすっきりしているというか、引退発表してから1ヵ月以上経っていますし、練習する時間をこういう(和田毅杯少年少女野球大会へ出席する)時間だったり、プライベートの時間にあてられるので」

Q:そもそもの野球との出会いは?
「身近に父が野球をやってたってのもありますし、野球やる集まりというか、部があったので自然とのめり込んでいたというか。当然サッカーやってる子どもいましたけれども、僕の周りには野球やってる子が多かったので自然と野球に出会うことができて。気がつい物心ついたらバットとボール持って走り回ってたっていう感じでしたね」

Q:浜田高校時代は?
「初めて親元を離れて、(出雲市から)浜田市に行っての寮生活でした。集まってくるっていうんですか、競合というか各チームのエースとか4番とか、そういう同級生が集まってきてたので、『やっぱレベルって全然違うな』と思いましたし、当然同級生以外もね、2年生3年生の体の大きさも全然違いましたし。
レギュラーになれるかなっていうそういうところからスタートしました。
でも、本当、浜田高校に進学して、野球をやれて良かったと思いますし、新田監督に出会ったこともやっぱり自分にとってはすごく本当運が良かったなと思ってます。」

Q:事前に新田さんに引退の報告もされたそうですね。
「引退発表する前日の夕方ぐらいですかね。電話をして、引退の報告をさしてもらいました。」

Q:今回の帰省に際して、浜田で同じ時間を過ごされたと聞きました。
「 郭さん(故・郭世香さん=浜田高校野球部総監督として長年指導)が数年前に亡くなられて、まだ墓前に行けてなかったので、自分もようやくお墓参り行けましたし、引退の報告も。新田さんと一緒に。島根にいる同期も集まってくれて、話をすることができました。」

Q:高校2年3年と夏の甲子園連続出場されました。
「2年のときはもうがむしゃらにやって、先輩もいましたし、怖いもの知らずじゃないですけど。あれよあれよという間に勝ちゃったっていう方が正直な気持ちなんですけど。3年生のときはねもう2年の甲子園でもう悔しい負け方をして、これはもう甲子園に出るだけじゃ先輩に顔向けできないなと。勝つことで、ようやく先輩に顔向けできるなと思ってたのでそういう気持ちでやってましたし島根県内ではね絶対負ける気はしなかったですね。夏の甲子園があったから早稲田大学に行ったのだと思います。」

Q:早稲田大学時代は?
「4年間というのが自分にとって本当に大きな一番の人生のターニングポイントもありましたし、その4年間があったからこそプロに進めたんだと思ってます。」

Q:ホークスに進んだ決め手は?
「球場の雰囲気ですよね。当時パ・リーグはセ・リーグに比べるとお客さんが全然いない中で野球をやってるってイメージだったんですけども、(現在の)みずほPayPayドームに限っては満員だったので、当時『マンデー パ・リーグ』ってね、月曜日に試合があったんですけど月曜日の試合をテレビで見た時に、平日の月曜日なのに満員だったので、びっくりしたというか、ホークスにどんな魅力があるのかなって、すごい引き寄せられるものがあって。また応援してる雰囲気も、もうほとんどがホークスファンで、これだけ応援してもらえる球場っていうのはなかなかないんじゃないかなと思ったし。早慶戦時の早稲田の応援に雰囲気が似ていて、自分が求めてる応援というか、応援してもらえる形に一番近いんじゃないかなと思いました。あの雲の上の存在だった松坂大輔がパ・リーグにいるっていうこともありました。松坂世代という意味で『自分がダイエーで先発になれば注目してもらえるかな』とか。一番の決め手やっぱりその球場の雰囲気ですねやっぱり。」

Q:アメリカでの時間は?
「一番ね、自分にとって苦しいというか、しんどい時間時期ではあったんですけれども、でもあの4年があったからこそ今の自分があると思って思ってますし、43歳までやれたと。うんそこはもう、うん。自信というか、…自信を持っているかなと思います。」

Q:日本球界復帰からホークスでは?
「アメリカでの4年間での特にマイナーの時間が長かったので、そこで考え方も変わりましたし、そのスタッフ、裏方さんの気持ちっていうのをすごく考えましたし、戻ってきてから9年間ってのは、若い子たちへの、指導ではないですけど、良い方向へ導くための一つの役割っていうのも自分には担っているなと思いながら、そういうのを少しでも手助けできたらなって思いでもやってましたね。」

Q:現役引退の決断については。
「2018年以降は、もう毎年のように
『駄目だったらやめよう』っていう思いでやってたのがもう5年ぐらい続いて、よく5年も続けられたなっていうのが本当自分の中の素直な気持ちなんですけど。でもその中で、1年1年一生懸命投げましたし、もう悔いのないように投げて、クールな日々を過ごしたつもりですし、今年、膝の痛みだったり腰だったり、調子がなかなか上がらなかった。いろいろなサインを体が走ったので、これはもうやめる。やっちゃいけないサインなんだなと自分では思ったので、すぱっと自分の中では、うん。諦めるっていうよりはもう、ここだな今年だなと思って、7月にはもうほぼほぼ決断して妻の方にも伝えてましたし、9月にはもう球団の方に。」

Q:これから島根県の野球との関わりは?
「まだね、自分の役職がまだ球団として多分残る可能性もまだありますし、役職はまだ決まってないので指導ができるできないっていうね問題っていうのも。(和田毅杯少年少女野球大会は)現役を辞めたとしても継続していきたいですし、たくさんの方の協力で今、運営もできているので、今後さらに大きい形で皆さんに協力してもらいながら、本当子供たちにとって、僕自身が『こんな大会があったらいいな』っていう思いで作った大会でもあるので、子供たちもそういうふうに思ってくれてると思うので、ずっと継続していけたらいいかと思います。」

Q:これからの目標は。
「『日々勉強』ですね。これからは野球だけではなくて違うことも勉強していかないといけないですし、野球以外の事は全くわからないです。1年目のルーキーの社会人なので、そういう意味で『日々勉強』していきながら、その勉強してきたことを将来野球に還元できるように頑張っていきたいと思います。」

「本当に22年間応援ありがとうございました。今後はまだ決まっていないんですけどまたいつか勉強してきたことで、球界に戻れるように努力していきたいと思いますので、これからも変わらず応援していただければうれしいです。本当にありがとうございました。」

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