宮城県名取市閖上地区は、太平洋に面した海と川のまちです。
名取川の南側に位置し、古くから漁業が盛ん。江戸時代には仙台藩直轄の港として栄え、東日本大震災の前には2000世帯以上、およそ5700人が暮らしていましたが、震災の津波で甚大な被害を受けました。

最後の船大工が語るかつての閖上の賑わい

この閖上で生まれ育った「最後の船大工」がいます。
腕利きの船大工として活躍した橋浦武さん(81)です。
橋浦さんは15歳で中学を卒業したあと、師匠のもとで修行を積み、その後独立。
船大工として職人の技を磨いてきました。
幼い日々の、かつての閖上の賑わいを懐かしく思うと話します。

橋浦武さん:
「昔はかまぼこは木の型で作っていたから、手ばたきかまぼこといって。炭で焼いたんだよ、ガスなんかないから。このころは吉次を使っていたから、ほかのとは全然格段の差。工場のひとたちもみな顔見知りで、破損したのを安く買ってきて食べてたね」

閖上での生活には欠かせなかった木造船「さくば」

そんな橋浦さんが、かまぼこのほかに、閖上の景色にいつもあったものと語るのが「さくば」です。

橋浦武さん:
「いっぱいあったんですよ、さくば。名取川に停めてあった」

「さくば」とは、昭和30年代ごろまでこの地域で漁船や渡し舟として使われていた、手漕ぎの木造船のこと。
4メートルほどの小舟で、橋浦さんは「水上の軽トラ」と表現します。
実はこの「さくば」、おそらく閖上でしか通じない言葉とのこと。
仙台市出身で日々県内を取材してまわっている筆者も、この取材を通して初めて耳にした言葉で、実物を目にしたことはありません。

橋浦武さん:
「生活の一部ですね。これがなかったら大変でした。川があるまちだから、生活に利用していた」

震災の津波ですべて流された

人々の生活の中に溶け込んでいた「さくば」でしたが、昭和後期になると仙台方面とつながる橋が開通したことで徐々にその数は減っていき、平成に入るとレジャー用としてわずかに残るのみとなりました。

橋浦武さん:
「6号線、10号線が通ったことでずいぶん流通が変わった。車の便もね」

そのわずかに残っていた「さくば」は、震災の津波ですべて流されました。

橋浦武さん:
「本当にすべて流された。私もずいぶん探した。でも無かった。跡形もなくなった。残骸も見あたらなかった。貞山堀、漁港、名取川にもかなりあったのに、無かった」

震災では自宅も大工道具も失う

2011年3月11日。沿岸部に暮らしていた橋浦さんはこの日、用事のため市内に外出していました。

橋浦武さん:
「保健センターで用事があった。ベニマルで買い物していたら地震があって、屋上に車を停めるようになっているから天井が落ちてくるかと思った。大体落ち着いて、お客さんは外に出て、ということでしばらくして解散しますと。うちに帰るかなと市役所に寄ったら、家には帰らないでくださいと言われて、増田中学校に避難して」

自宅は津波で流され、大切にしていた大工道具のほとんどを失いました。
さくばの設計図も流失し、いまでは閖上の住民でもその存在を知る人は少なくなってきています。

橋浦さんは、被災した自宅跡から見つかった数本のノミとカンナを使って、10分の1ほどのサイズのさくばの模型を作っています。小学校や公民館で講話をし、閖上のまちの歴史を子どもたちに伝えるためです。

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