物価高の今「給料手取りアップ」こそ誰もが求める政策でしょう。1960年に手取りアップどころか「給料倍増」をうたった政策がありました。池田内閣の「所得倍増計画」です。あの頃と今、何が似ていて何が違うのでしょう。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

「安保よりも経済」からはじまった

1950年代後半「新安保条約強行採決」で国会は荒れに荒れていました。岸内閣は責任を取って退陣、その後を引き継いだのが池田勇人内閣です。

強行採決、国会の混乱の責任を取って岸内閣は退陣しました。

自民党には大逆風が吹いていました。
4年後には東京五輪もひかえており、国民の生活水準はまだ十分とはいえず、求められていたのは「分かりやすい国民の希望」。そんな時代でした。

第58代内閣総理大臣池田勇人首相が、そんな世情にぶちかましたのが「所得倍増計画」だったのです。

実質経済成長率7.2%に!

池田内閣の目標期限は10年でした。10年でGNP(国民総生産・現在のGDPに近似)を2倍にするというのです。この目標を達成するためには、毎年7.2%の経済成長を遂げねばなりません。

10年間でGNPを倍増させる、ここから逆算すると、成長率は年7.2%になります。これを閣議決定しました。

彼はこう言いました。
「生産が伸びれば所得が増加する、所得が増加すれば(所得の中の税負担が減り)減税となる、減税すれば貯金をする、貯金をすれば(金融機関を通して)工場におカネがまわる、雪だるま式であります」(新政策発表大講演会1960年9月)

生産向上→所得向上→銀行預金→産業にカネがまわる→生産向上…の良循環が回り出す、それが池田ドクトリンでした。

重点政策は何か?

はたしてそんなにうまくいくものか。うまくいくためには前提がありました。
まずは産業基盤の整備です。高速道路や新幹線などの交通インフラ、電力や通信インフラの強化をしました。
次に産業の高度化です。製造業の近代化を進めるための技術革新と、労働生産性の向上です。
さらに貿易の自由化でした。ケネディ大統領ともサシで話し合い、国際競争力を高めるための輸出を促進させようとしました。

池田ケネディ会談 1961年6月ワシントンD.C.

そして、国民皆保険・皆年金制度の確立や、教育への投資拡大。さらには地域間の経済格差を縮小するため、地方の産業振興に取り組みました。
つまり先進国としての戦後日本の基盤は、すべてこの期間に出そろったのです。

結果は「吉!」と出た

じつは池田内閣が「所得倍増計画」をぶち上げた際、多くのエコノミストやマスメディアは「そんなことできるわけがない」と冷笑したのです。しかし、結果を見れば、10年でGNPは倍増どころか4倍になっていました。
高度成長を成し遂げ、国民は「三種の神器」や「3C」を買い求めるようになり、日本は1960年代末には世界第2位の経済大国にのし上がりました。いわゆる「先進国クラブ」OECDに加わったのもこの頃です。

国としては先進国へ。国民は冷蔵庫、洗濯機、掃除機、カラーテレビ、クルマ、エアコンを手に入れていきました。

今と何が違うのか

一方の現代です。
この30年というもの、所得倍増どころか、日本人の所得は一向に上がりませんでした。
単純にあの頃と較べることはできませんが、何が似ていて何が違うのでしょう。
自民党に逆風が吹いているのは同じ。国際社会が戦争への危機感を持っているのも同じです。格差が拡がり、貧困が問題になっているのも(レベルの差はありますが)割合似ています。
しかし、何が違うって、圧倒的なのは、次の部分でしょう。
人口増加中の60年代と、人口減少中の今。若い人が多かった60年代と、高齢化の進む今。
何より「追いつけ追いこせ」の60年代に較べて、今の日本は「守り」に入ってしまっています。

「国民の皆さん働きましょう」というのは池田首相の口癖だったそうです。

所得倍増計画の「意義」

池田内閣の「所得倍増計画」は、戦後日本の経済発展を決定づけ、国民の生活水準を飛躍的に向上させました。しかし、それ以外にもじつは「精神的」な意義があったといわれます。
それは天下国家を武士的に語るのではなく、経済つまり商人的な金勘定がこれからの日本を決定づけるのだと、国民に印象づけたことです。そういえば「エコノミックアニマル」などという揶揄の言葉が生まれたのも、この政策の直後からでした。

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