医学部増員計画に抗議する医師たち(ソウル、今年2月) AP/AFLO
<政府の医学部定員増に抗議する研修医のストが長期化。医療現場の混乱は拡大し、患者は命の危険にさらされている>
韓国で2月に始まった病院勤務医のストが終わらない。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の支持率低下も止まらない。実を言うと、尹と医者の間には長年にわたる確執がある。
2000年以前の韓国では、医者が処方薬も売っていた。薬を処方すればするほど儲かるから、どうしても薬剤の過剰投与につながる。患者の金銭的負担は増え、副作用のリスクも高まる。現に1990年代の韓国では総医療費の約3分の1が薬代だった。
この弊害を正すため、00年に医薬分業を義務付ける法案が採択された。医師は処方箋を出すだけで、調剤と販売は薬剤師が担当する仕組みだ。しかし、これを既得権の侵害とみた医師側は猛反発し、ストライキに突入して病院を閉鎖した。
そこで「医療法」が発動された。政府が公衆衛生上の危機と認定した場合に、医師や医療機関に診療行為の継続を義務付ける法律だ。結果、ストを扇動したとして2人の医師が起訴されて有罪となり、医師免許を剝奪された。このときの首席検事が、誰あろう尹だった。
新型コロナの感染が拡大した20年にも慢性的な医師不足が問題となり、当時の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は大学医学部の定員を増やし、学費無料の公立医科大学を設立して卒業生に地域医療への従事を義務付ける構想を打ち出した。しかし、これにも現役の医師たちが反対してストに突入。医療現場が麻痺したため、文政権は撤回を余儀なくされた。
尹大統領の支持率は20%台に低下 KIM JAE-HWANーSOPA IMAGESーREUTERSだが、改革の必要性は尹も痛感していた。だから今年2月、ついに医学部の定員増を発表。今後5年間で、現在約3000人の入学定員を毎年2000人ずつ増やす構想だが、大学側の受け入れ体制を考慮し、まずは25年度の新入生を1500人増の4500人とすることになった。
しかし、医師の増加による競争の激化と収入減を恐れる研修医(全国で約1万3000人)の90%以上がこの計画に抗議して辞表を出し、今も職場復帰を拒んでいる。事態は深刻だ。突然の人手不足で救急患者の受け入れを断る病院もあり、防げたはずの死が増えている。適切な治療を受けられなかった患者の数は、昨年に比べて40%増えた。
今年上半期には、救急治療室で死亡する患者の割合が前年同期比で13.5%も増えた。救急搬送中に息を引き取る患者もいる。遠くの病院に回されて搬送に時間がかかり、手遅れになって死亡する例や、深刻な後遺症が残ってしまう例もある。
それでも、ストが終わる気配はない。彼らは韓国にこれ以上の医師は必要ないと主張している。韓国では医師の数が人口1000人当たりわずか2.6人で、OECD(経済協力開発機構)加盟国平均の3.7人よりはるかに少ないが、この事実の深刻さを彼らは認めようとしない。
医師は大都市の大病院に集中しがち(ソウル) LEE JAE WON/AFLOなぜか。OECD加盟国の多くでは、医療サービスが「人頭払い」方式で運営されている。これに対して韓国では、診療報酬が「出来高払い」方式で支払われる。
人頭払い方式では、医師は登録患者1人につき一定額の報酬を受け取る。医療の質を確保し、過労で医師が倒れる事態を防ぐため、各医師が担当する患者数に上限を設ける場合もある。そうでない場合は、医師が多くの患者を担当すればするほど、報酬が増えることになる。どちらにせよ、人頭払い方式をベースに十分な数の医師を確保することで、医療の地域格差が減り、より公平な医療サービスを提供できるはずだ。
需要に見合う医師がいない
しかし韓国では、個々の診療行為に対して報酬が支払われる。この場合は、できるだけ多くの患者を少数の病院に集め、少数の医師で対応するほうが儲かる。出来高払いである限り、医者はどうしても利益率が高くて値段も高い「最先端」の医療を提供したくなる。
韓国の医師の平均年収は20万ドル超で、OECD加盟国の中では最も高く、韓国の平均的な労働者の年収の約7倍に当たる。人頭払い方式でも、少ない医師で多くの患者を担当すれば医師の収入は増える。ただOECD加盟国の多くでは、そうならないように一定数の医師を養成できる仕組みを整えている。
ストの影響で救急患者の受け入れに支障が出るケースも JEAN CHUNGーBLOOMBERG/GETTY IMAGES今の韓国にはそういう仕組みがなく、一方で悪しき出来高払いが温存されている。この事態に対処するため、尹政権はいわゆる「混合診療」(治療費に公的健康保険が適用される治療と、保険外の自費治療を同時に行う行為)の禁止を打ち出した。
健康保険が適用されるのは救命や生活の質の維持に必要な治療行為だ。ただし保険診療には報酬額の上限があるため、儲けたい医師は保険外の治療を好んで行う。当然、患者側の金銭的負担は増える。それを防ぐために、政府は混合診療の禁止を打ち出したが、医師たちはこれにも反対している。
医学部の定員増に反対する理由の1つとして、医師たちは少子高齢化に伴う将来的な人口減を挙げている。だが総人口は減っても、高齢者が増えれば医療のニーズは増えるはずだ。
韓国では50年までに65歳以上の高齢者が人口の40%を占め、72年までには50%近くに達する可能性が高い。短期で見ても、高齢化によって患者の平均入院期間は45%も長くなる。一方、35年までに3万人以上の医師が退職する見込みだ。
需要の増加は高齢者医療にとどまらない。病院側は最新の遺伝子工学や臨床研究、デジタルヘルスケア、バイオテクノロジーなどにも対応せねばならず、そうした新分野の研究や臨床応用に当たっての倫理基準の制定などに従事する医師の需要も増えている。
儲かる分野に医師が集中
医師たちが政府の医学部定員増計画に反対する2つ目の理由は、大学側の受け入れ体制への懸念だ。
数字上は、韓国の大学は欧米先進国と比べて教授1人当たりの学生数や1校当たりの学生数が少ない。ただし大学間の格差が大きく、一部の大学では学生の定員増に対応できない恐れがある。解剖学の授業で使用する遺体が不足し、学生の実習に支障を来すケースも予想される。
だがこれらの懸念がいかに正当なものであっても、韓国の医師不足を否定する材料にはならない。増員計画を撤回させるには不十分だろう。
そこで医師たちが最終的に増員計画への反対を正当化するために主張しているのが、増員よりも各分野にバランスよく医師を配置することが解決策になるという議論だ。
韓国では命に関わる診療行為への報酬が低く、訴訟リスクは高い。そのため、どうしても皮膚科や美容外科、眼科や整形外科といった「低リスクで儲かる」診療科を選んで開業する医師が多くなる。
結果、救急医療や胸部心臓外科、小児科、神経外科や内科などの診療科では慢性的な医師不足が発生している。22年には各病院が産科の研修医を募集したものの、募集枠の8割しか集まらなかった。心臓血管外科で訓練を受けた専門医の82%が別の診療科に転向しているというデータもある。
さらに悪いことに、残った数少ない専門医は大都市圏の大手病院に集中する。地方には医療の空白が生じ、予防可能な死亡例が増えている。
この問題に確実に対処する方法は、公立の医科大学を設立し、学費を全額免除にして育てた医師を政府が雇い、一定期間、命に関わる診療科や地方病院での勤務を義務付けることだろう。だが韓国の医師たちは、これに一貫して反対してきた。
そこで、尹政権は次善の策を提示している。必要不可欠な医療サービスについて政府の定める診療報酬を引き上げ、医師たちが困難だが重要な診療科にとどまるインセンティブを与える、地方の病院にとどまる医師に特別ボーナスを支給する、などの対策だ。しかしストライキ中の医師たちは、政府が医学部の定員増を撤回しない限り、他の選択肢の議論には応じない構えだ。
どんなインセンティブを導入したところで、医師たちは結局、儲かる分野に吸い寄せられる。そうであれば、いっそのこと美容整形や皮膚科といった人気分野にもっと多くの医師を送り込み、市場を飽和状態にしてしまえばいい。供給が増えて需要が変わらなければ、医師1人当たりの収入が減るのは自明の理。そうなれば研修医たちも将来の進路を決める際に、もっと別の診療科を検討するかもしれない。
患者の命より自分の利益
こうした問題の背景には、さらに厄介な事情もある。韓国では、医学部に進学できるのは裕福な家の子供で、入試に強い学生だけだ。現状では医学生の80%が、所得水準上位20%の出身とされる。
概して先進諸国では、さまざまな社会経済的背景を持つ若者が医学部に進めるような体制が整備されており、入試に当たっては仕事への情熱や倫理観、心理的適性が考慮に入れられている。こうした資質は臨床医にも研究医にも不可欠だからだ。
対して、韓国の医師は富裕層の出身者ばかり。結果、利己的でエリート意識の強い人間の集まりになる。ある著名な医科教授が言っていた。今の医者は「この国の医療制度が抱える問題は全て政府のせいだという被害者意識を持ち、排他的な集団内で自分たちに都合よくデータを歪曲することを正当化する。それを繰り返しながら、最後にはそれを多数派の信条にしてしまう」。だから彼らに「妥協」という言葉はないそうだ。
研修医のストに加え、医学生の95%が授業への出席を拒んでいる。結果として単位不足になり、来期に再履修することになれば大学側の負担が増え、新入生の増員どころではなくなると考えるからだ。要するに彼らは、他人が自分たちよりも楽して医者になれるのは不公平だと信じて疑わない。
これではどう頑張っても、特定の診療科や地域に医者が偏ってしまう状況は改善できまい。何しろ、医者の絶対数が足りない。それでも時間をかけて医学部の入学定員を徐々に増やし、ばからしいほど高い入試の壁を低くしていけば、いずれは私利私欲よりも患者のため、社会のために尽くしたい人が医者になれる日が来るだろう。
ストが始まって半年以上が過ぎた9月、尹大統領の支持率は就任以来最低の20%にまで下がった。しかし、この問題で大統領を責めるのは間違いだ。
最大野党の「共に民主党」がこの問題を政治利用するのは当然だし、支持率低下にあえぐ与党内に医療改革の先送りを求める声があるのも事実。尹がスキャンダルまみれで、およそ国民感情を理解できていないのも事実だ。しかし、医者の絶対数を増やせという彼の主張は正しい。間違いではない。
その一方で、ストに参加せず診療行為を続けている医師たちの実名入り「ブラックリスト」が出回っている。ある医者が作成し、医療関係のサイトに載せたものだ。スト破りを糾弾したいのだろうが、卑劣だ。まあ、おかげで私たちは誰が「本当に患者を大切にしてくれる医者」かを知ることができたのだが。
From thediplomat.com
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