サウス・セントラル・ロサンゼルスにある落書き。「ブラッズ」「クリップス」の名が書かれている Joseph Sohm-shutterstock

<その第2期は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやマルコムXといった著名黒人指導者の暗殺から始まった。20世紀初頭から始まる、ロサンゼルスのストリート・ギャングによる犯罪の歴史を紐解く(その2)>

ロサンゼルスのストリート・ギャングの活動は、1960年代の終わりに起こった黒人指導者たちの暗殺によって活動の転換期を迎えた。人種や民族など出自の違いによる分断がベースになる一方で、出自を問わないかたちも生まれた。

分断のモザイク化が進み、麻薬、武器と人身の売買、恐喝、殺人など凶悪化していくギャングたち。「見えない境界線」はアメリカだけでなく、近隣諸国へと勢力を拡大していく。

ほとんど日本では知られていない、ディープなストリート・ギャング犯罪の歴史。『世界は「見えない境界線」でできている』(マキシム・サムソン著、かんき出版)から、「ロサンゼルスのストリート・ギャング」の項を抜粋し、3回に分けて紹介する。

本記事は第2回。

※第1回:観光客向け「ギャングツアー」まであるロサンゼルス...地図に載らない危険な境界線はどこか より続く

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ギャングたちも吸収合併を経て勢力拡大をはかった

USオーガニゼーションとブラックパンサー党の深刻な弱体化が進む一方、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやマルコムXといった全国的な影響力を持つ黒人指導者が1960年代の終わりに暗殺されたことで、権威と抵抗の新しいシステムが必要になった。

こうして、黒人ストリート・ギャングの第2期が始まった。なかでも全米に名を馳せたギャングは、クリップスとブラッズだった。クリップスの起源については諸説あるが、複数の情報源によると、サウス・セントラル・ロサンゼルスでライバル関係にあったギャングのメンバーで、まだ10代だったレイモンド・ワシントンとスタンリー・「トゥッキー」・ウィリアムズが創設したという。

この2人は、もっと名の知れた敵と対決し、地元を事実上支配しようと考えた。クリップスの好戦性に怒った小規模のギャングは、ただちにブラッズを結成して対抗した。多くの若者――特に貧しく、産業が空洞化した都心部の男性にすれば、こうしたギャングは、地位や仲間だけでなく、それ以上に大切な金を得るための一番わかりやすい道筋だった(特に1980年代以降、クラック・コカイン市場で大儲けできた)。

どちらのギャングも麻薬取引を行うことで、サウス・セントラル・ロサンゼルスの従来の境界をはるかに越えて勢力を拡大した。その過程で、何千もの新しいメンバーをスカウトし、数多くの小規模ストリート・ギャングを吸収して、米国の主要都市だけでなく、カナダのトロントやモントリオールにまで途方もない苦痛を持ちこんだ。

ロサンゼルスの街並み JohnNilsson-shutterstock

こうしたグループは、ギャング・カルチャーを共有していて、「血(ブラッド)」や「不良品(クリップ)」などと名乗ってはいるが、単一の階層組織ではなく、実際にはゆるやかに結びついたネットワークを構成していると考えたほうがいい。さらに言えば、一部では人種的な同質性はもはや存在せず、さまざまな出自のメンバーを歓迎し、同盟関係を結んでいる。

とはいえ、ロサンゼルスのギャングの大多数は、依然として特定の人種的、民族的、国民的アイデンティティを持ち、名称もサンズ・オブ・サモア(サモアの息子たち)、エイジアン・ボーイズ(アジアの仲間)、アルメニアン・パワー(アルメニアの力)など、メンバーの出身地や地理上の由来を表していることが多い。

ヒスパニックのギャングは、彼らが生まれ、いまも自分のものであると主張している地区の名称を使っている。勢力のあるメキシコ系のエルモンテ・フローレス(EMF)、フロレンシア13(F13)、オンタリオ・バリオ・スール(OVS)、アヴェニューズ、アズーサ13(A13)、ヴェニス13(VS13)、もっと多国籍の〈18番街〉などだ。

13という数字がよく使われているが、これは、「メキシカン・マフィア」を表すMがアルファベットで13番目の文字だからである。ロサンゼルスを拠点にするその他のギャングの名称、たとえばマラ・サルバトルチャ(MS-13)の由来はやや不確かだが、エルサルバドル(「サルバ」)のスラングでギャングを意味する「マラ」と警戒や都会慣れを意味する「トルチャ」を合成したものであると言われる。

MS-13は当初「ストーナー」ギャング(麻薬で恍惚状態になって、ローリング・ストーンズなどのロックバンドの曲を聴くことで知られるヒスパニックか白人のギャング)と見られていた。

だが、エルサルバドル内戦(1979~92)を逃れてきた者が大半を占めるメンバーは、ロサンゼルスの過酷なストリートで生き抜くためには、相手と同じ手段で戦わなければならないことにすぐに気づいた。

1980年代初頭にはおおむね無害だったMSは、10年ほどたつと残忍なMS-13に変貌し、麻薬、武器と人身の売買、恐喝、殺人などで悪名を馳せた。エルサルバドルの内戦が終結して、多くのメンバーが強制送還されたが、彼らはさまざまな不正取引のルートを利用して、中米や北米の一部にその活動を広げている。

過密化した刑務所の中で広がるギャングの輪

もう1つ注意しなければならないのは、ストリート・ギャングの培養器(インキュベーター)は路上だけではない点だ。特に1960年代以降は、収監システムが鉄格子のなかと外に恐るべき集団を生み出した。転機となった64年の公民権法は、「人種、肌の色、宗教、国籍」を理由にした差別を禁止して、全国で合法的に行われていた人種差別を終わらせたが、新たに人種統合された刑務所のなかでは、囚人が同じ人種でまとまる傾向が見られた。

さらに1980年代と90年代の「犯罪に厳しく(タフ・オン・クライム)」の方針――麻薬所持や、執行猶予と仮釈放中の違反行為のような比較的軽くて小規模で暴力を伴わない犯罪に関与した人を投獄することを目的としていた――によって、カリフォルニアの刑務所は信じられないほどの過密状態になった。

威圧的で不穏な施設のなかで人種別のギャングが勢力を拡大し、暴力で紛争を解決したり、メンバーに規律を守らせたり、無関係な囚人を脅して仲間に加えたりしたことは少しも不思議ではない。

カリフォルニアの各刑務所で人種間の暴力が大変深刻になったため、州は危険人物と見なされる囚人を人種的に隔離するという非公式のルールを採用した。2005年、連邦最高裁判所はカリフォルニア州に対して、この措置を中止するよう命じた。それでも最高水準のセキュリティを有する刑務所はまだ、特定の囚人の隔離は異なる出身の囚人同士が喧嘩する(そして、相手を殺す)ことを防ぐために必要であると考えている。

その点について言えば、人種統合が行われた刑務所でも、大半の囚人は、生き延びるために同じ人種で固まるべきだと考えており、食堂のような共用スペースでは別の人種と距離を置いている。

最悪の暴力を生み出したヒスパニック・ギャングの分断

また、ヒスパニック・ギャングのメンバーのあいだで、地理上の大きなへだたりが最悪の暴力の基盤にもなっているのは興味深い。具体的に言えば、刑務所に入れられたときに、だいたいの者は所属していたストリート・ギャングに関係なく、スレーニョス(スペイン語で「南部人」という意味で、カリフォルニア南部の出身者のこと)か、ノルテーニョス(「北部人」という意味で、カリフォルニア北部の出身者のこと)に二分される。

この地域的な分断が生まれたのは1970年代で、当時、かたや南カリフォルニアのメキシカン・マフィア、かたや北カリフォルニアのヌエストラ・ファミリアへの忠誠を公言していた2つのグループが対立していた。

いまでは州のヒスパニックの刑務所(プリズン)ギャングとストリート・ギャングの大半が、セントラル・バレーの南の端を東西に横切る見えない線によって大まかに分けられ、スレーニョスかノルテーニョスのどちらかとつながっている。

かなり前から刑務所で特に深刻な問題になっている白人至上主義のギャングは、戦闘的な集団であるのを示すために、「ペッカーウッズ」と名乗ることが少なくない。この呼び名は、もともと貧しい白人を意味する19世紀のアフリカ系米国人のスラングで、当時は軽蔑的な意味で使われていたのだが、1960年代の激動のなかで団結を目指した人種差別主義者の白人の囚人たちがそれを拝借した。

白人至上主義のプリズン・ギャングで最初にできたのは、公民権法の成立からまもなく、サンフランシスコ近郊のサン・クエンティン州立刑務所でマルクス・レーニン主義に影響を受けたブラック・ゲリラ・ファミリー(BGF)に対抗して誕生したアーリアン・ブラザーフッド(AB)である。

疑い深く、神経過敏で、偏見に凝り固まったABは「殺しを経験する(メイキング・ワンズ・ボーンズ)」なる冷酷な加入条件を設けた。

加入を希望する者は、敵対するギャングのメンバーや、人種の違う囚人か看守に暴行を加えるか、殺すことを要求された。こうして、容易に手に負えない人種間戦争が始まり、またたく間に米国の大部分の刑務所へと広がっていった。

ペッカーウッズは刑務所だけでなく、次第にストリート、とりわけ南カリフォルニアのストリートで数を増していった。現在、更生もせずに釈放された囚人が、委託殺人や個人情報窃盗、武装強盗、メタンフェタミン(訳注 覚醒剤の一種)の製造など、考えられるかぎりの犯罪にかかわっている。

こうした集団は、鉤十字や88という数字などのネオナチに典型的なシンボルを好んで身につけていても、だいたいがイデオロギーより金銭欲に突き動かされ、別の人種のギャングと業務提携することもいとわず、大金を得られる事業に手を出す傾向がある。ただし、黒人と手を組むことはない。

いまや戦いの第一目標は利益になったとはいえ、白人至上主義のギャングはなおも人種の問題をなおざりにはしていない。メンバーには、70年前と変わることなく黒人の家族に嫌がらせや脅迫をして、住んでいる場所から追い出す悪質な者がいるし、人種憎悪をあおる発言も、新たなメンバーを引き寄せて取りこむために、いまでも刑務所で使われている。

それでも昔から、たとえヒスパニックの祖先がいても、白人を自認し、白人種への忠誠を公言する者をメンバーに受け入れてきた例外的な白人至上主義のギャングもある。

サクラメント近郊のカリフォルニア州少年院に収容されていたジョン・スティンソンが1978年に創設したナチ・ローライダーズ(NLR)は、刑務所を拠点としたABとの連携によって急速に拡大した。

この時期、ABの幹部の多くが独房に監禁されており、ギャングへの影響力が制限されていた。NLRはこのすき間を埋め、カリフォルニアの刑務所で――その後はほかの州の刑務所でも――ABの広範な犯罪ネットワークのなかで仲介や代理を行った。

そうしながら、保護は欲しいが、有名になって厳しい監視下にあるABの直接の配下とは見られたくないスキンヘッドの若者たちをスカウトした。まもなく、元被収容者と、この敵意ある集団に引き寄せられた人々の両方で構成されたNLRのストリート・ギャング版も登場した。

現在に至るまで、NLRは一般人に対する人種差別、同性愛嫌悪などの死亡事件を含むヘイトクライムに関与して悪評を高めている。

残念ながら、NLRがプリズン・ギャングに正式に分類され、20世紀から21世紀への変わり目にスティンソン(それにABのメンバーの何人か)を含むリーダーの有罪が確定しても、白人至上主義ギャングの活動を完全に阻止する効果は得られなかった。

NLRとABの残党は(かなり激論が交わされたらしいが)、地元の別の白人至上主義団体で、暴力性と攻撃性で知られたロサンゼルスのロング・ビーチのハードコア・パンク音楽界を起源に持つパブリック・エネミー・ナンバーワン(PENIまたはPEN1)に合流することを決めた。

1980年代の英国で活躍した無政府主義パンク・バンド<ルーディメンタリー・ペナイ>にちなんで名づけられ(もちろん非公認だ)、中産階級のメンバーが多いPENIは、なりすまし個人情報窃盗や詐欺などホワイトカラー系の犯罪に関与していることで知られるが、それ以外に、ほかのストリート・ギャングから白人の若者を「守る」という口実で暴力犯罪に手を染めている。

現在のPENIは、「スキンヘッド―ストリート―プリズン」という混合(ハイブリット)型ギャングになっており、状況に応じて人種差別主義の暴漢と傭兵と詐欺師の三役をこなすメンバーの能力のおかげで、刑務所内だけでなく、富裕層の住む郊外住宅地でも勢力を誇っている。


※第3回:ロサンゼルスのギャング抗争は、警察側も非道なプロファイリング、銃撃・投獄を行っていた に続く


『世界は「見えない境界線」でできている』
 マキシム・サムソン 著
 染田屋 茂、杉田 真 訳
 かんき出版

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