輪島市中心部には全壊した家屋や「五島屋」の7階建てビルがそのまま残されている KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

<「テレビは表面的な報道ばかり」「集落は全滅と一緒です」「岸田さんは何をしとる?」過疎高齢化の集落で取り残された被災者の声を聞く>

今年の元日に発生した能登半島地震から半年、被災地以外の地域に暮らす人々の目に能登の現状はどう映っているだろうか。地震直後に3万4000人余りいた石川県の避難者は、旅館などへの2次避難を含めて2394人にまで減った(6月18日時点)。2月からは仮設住宅への入居も順次始まり、金沢などに散り散りになっていた住民がようやく故郷に戻り始めた――。

こうした断片的なニュースは、水も電気もなく命が危険にさらされていた災害直後の状態から考えれば、復旧・復興に向けた一つの真実ではある。だが震度7が観測された輪島市を歩けば、半年もたつのにそこだけ時間が止まったかのような、まるで取り残されたかのような光景が至る所に広がっている。

1月に取材した輪島市を6月上旬に訪れると、焼け焦げた朝市の光景はほぼそのまま、鉄骨にサビが広がり、輪島塗の老舗「五島屋」の7階建てビルは横倒しのまま放置されていた。その周辺には全壊した家屋がいくつも残されている。

変わった点はと言えば、以前は上空をバラバラと音を立てて飛んでいた自衛隊のヘリコプターが姿を消し、町全体が奇妙に静まり返っていたこと。そして、被災者の間に「忘れられていく」ことへの不安と先行きの見えない現状へのストレスが蓄積されていたことだった。

「岸田さんは何をしとる?」

輪島市三井町長沢の自宅内で取材に応じる辻田恵利子。中規模半壊と判定された自宅の中は壁紙が剝がれ落ち、梁がずれて危険な状態に KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN


「がっかりです、本当に」6月9日、2カ月前に避難先から輪島市三井町長沢に戻ったという辻田恵利子(61)は、「復旧・復興」に程遠い生活に疲れ果てていた。三井町長沢地区は、輪島の市街地から車で15分ほどに位置する50~60戸の集落だ。

中規模半壊と判定された築60年になる彼女の自宅は、とても住める状態ではない。そのため4月9日には夫の政俊(62)と同じ敷地にある息子宅で仮住まいを始めつつ、自宅で散乱した荷物をこつこつと整理してきた。

避難していた中能登の娘の家から輪島に戻ってきたのは、4月末に近隣の仮設住宅に入れると聞いていたからだ。だが最初に完成した長沢地区の仮設住宅には選考に漏れて入居できず、6月6日に入居が始まった2つ目の仮設住宅にも外れた。

6月初めには7月22日頃に約5キロ離れた別の集落の仮設住宅に入れると言われたが、その仮設には親戚も知り合いもいない。入居を先延ばしにした上、「高齢者の1人暮らしなど弱者に配慮のない割り振り」をしている市に対し、不信感ばかりが募っているという。

長沢地区にはプレハブ型の仮設20戸と木造長屋型の仮設68戸、計88戸が建てられたが、辻田家の近所にはどちらにも当たらなかった家が数軒ある。なかには半壊の家で今もトイレが使えず、凝固剤を使って処理している1人暮らしの高齢女性もいるが、一方で自宅に住めるのに仮設住宅が当たり、そこを物置代わりに使っている人の話も聞く。

「市は何を基準に(仮設に入る人を)選んでるんですか? もう信じてないし、言っても駄目やなと思っている」と、恵利子は言う。夫の政俊は、別の集落の仮設に入った場合、自分が仕事に出ている間に妻が部屋に独り閉じ籠もることを案じ、なんとか同じ集落の仮設に入れないかと市に電話した。

彼は言う。「弱者に配慮して仮設に外れたなら私らも仕方がないと思うけど、周りを見ると弱者への配慮はない。それで電話したら、『苦情相談室』に回された。最初はこの家つぶしてやり直そうとか、将来のこともいろいろ考えとったけど、もう気力もなくなった」

とはいえ、輪島市で生まれ育った2人は、今のところこの地を出ていくつもりはない。三井町は、石川県木であるヒノキアスナロ(石川方言で「アテの木」)の産地であり、政俊と息子(36)は林業をなりわいとしている。その息子は、数年前に自宅の隣に家を新築したばかりだった。

辻田家のように故郷で再起を図ろうという住民にさえ、行政の対応はあまりに冷たく映る。恵利子は悲嘆をあらわにして言った。「岸田さんは何をしとるんですか?」

輪島の朝市はほぼ変わらぬ姿で取り残されていた(6月9日)KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

公費解体が進まない理由

仮設への入居をめぐって、集落も人の心もバラバラになりかねない。そうした三井町内で6月6日に入居が始まったばかりの仮設住宅を訪れると、近くの三井公民館前で館長の小山栄(74)が1人でたばこを吸っていた。

小山に聞くと、避難所となったこの公民館には4人の避難者がいる(6月24日時点で2人に減った)。そのほかの住民はようやく仮設住宅に移ることができたが、避難所に仮設シャワーが設置されたのもつい最近のことで、小山自身も5月末まで避難所内で寝泊まりしていた。

輪島市では、今も380人が避難所で暮らしている。輪島市環境対策課の友延和義課長によれば、市内で半壊以上と認定された建物は1万6863戸。そのうち、公費解体の申請があったのは5442件。全国の過去の統計から推計すると、最終的な解体申請は全体の半数である8000戸以上になるとみているが、現状はわずか121戸しか解体できていない(解体申請・実施数は6月9日時点)。

友延によれば、公費解体が進まない背景には、能登半島の先端という地理的条件から調査や解体を行う業者が入るのが難しいことや、市内に宿泊場所を確保するのが困難なことがある。

同じ理由からだろうか。東日本大震災から半年後の被災地であれほど見かけたボランティアの姿も、輪島市内ではほとんど目にしない。

中心部や集落を歩けば、誰の助けも借りず、解体も修築もできず、今にも倒壊するかもしれない危険な家屋でひっそりと暮らす人々がいる。トイレと風呂が使えない自宅と、近くの避難所を行ったり来たりしながら生活している人もいる。

小山は、「在宅で避難されている方が、一番つらい思いしたんじゃないかな」と気遣った。「壊れた家で、なんとか部屋を1つ確保してっていうほうが生活は厳しいと思うよ。三井にはいまだに水が通っていない集落もある。このままではコミュニティーが壊れていく」

金沢近郊に借りた倉庫に輪島塗の在庫や半製品を1人で運んだという二井雅晴。輪島市と20往復して、やっと全て移動できた KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN


一方で、輪島市外で避難生活を送る人にとっては、仮設にやっと「当たって」故郷に戻れることがまずは大きな一歩になる......はずだ。翌6月10日に輪島市役所で、1月に市内で取材した二井雅晴(60)とばったり再会した。

朝市に近い輪島塗漆器店「二井朝日堂」の店主である彼は、この5カ月間は避難先である金沢市内のホテル5軒を約1カ月ごとに転々とし、今もホテル暮らし。この間、店にあった輪島塗の大量の在庫と半製品をたった1人で運び出し、自家用車のハイエースで輪島と20往復して金沢近郊の倉庫に移動させたという。

そうしてようやく、輪島市内の仮設住宅が当たった。しかし割り当てられた仮設は「山の上で、道もひどいし、とてもじゃないけど住めません」と首を振る。被災後に金沢市内の病院に入院した母親(86)といずれ2人暮らしを再開するつもりだが、1~2人用の部屋は単身者にも手狭な約4畳半になるとも聞く。

二井は、立地の問題から別の仮設に入れてほしい、そして自宅の一部だけを公費解体できないかと相談するため、金沢を朝一番に出て輪島市役所までやって来た。聞けば、今も週に2~3回は金沢と輪島を往復しているという。

輪島市役所に貼られた注意書き KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

仮設住宅の非情な現実

やっと故郷に戻れるというのに、「住めない」仮設とは一体どんな場所にあるのか。車で向かうと、二井の言う輪島市杉平町「サンアリーナ駐車場」の仮設住宅に行くには、亀裂の入った急勾配の坂道を上らねばならず、反対車線は陥没していた。高齢者がこの坂道を歩いて行き来するのは体力的に難しく、車がなければ買い物に出かけるのもままならないだろう。

駐車場に軽自動車を止める高齢男性2人がいたので、プレハブ式仮設の中を見せてもらう。4畳半ほどの部屋が1つ。小さなキッチンとトイレと浴室、それに電化製品が一式そろってはいるが、91歳と81歳の兄弟2人が生活するにはあまりに狭い。

前日に、辻田政俊が口にしていた「弱者に配慮のない割り振り」「知らない部落の仮設に入ったら、それこそ孤独死や」という言葉が思い出される。

仮設住宅には、一般的に音漏れがしやすいといわれるプレハブ式と、2年を過ぎても災害公営住宅に転用し居住可能な黒い屋根瓦付きの木造長屋型がある。2つのどちらに当たるかも、住民の間で不公平感が募る一因になっている。

しかし、市としてはプレハブ式と木造長屋型を等しく応急仮設住宅として扱っており、入居募集のときにどちらを希望するかも聞いていないと、輪島市まちづくり推進課の上畠茂雄課長は説明する。

どちらに割り振られるかは、「元の住居に近いかどうか」が一つの基準。そのほか、「全壊など被災の程度、高齢者のみ、要支援者など、細かくは言えないんですけど、いろんな基準を設けて点数を付けて選考している」。

車を持っているかどうかは入居募集の際に確認しておらず、山の上であっても「無料巡回バスは走らせているし、住めないということはない」。木造長屋型も入居期間は2年で、「住宅の造りとして」2年を超えても住めるというだけで、その後の活用方法は決まっていないという。

上畠によれば、「応急仮設住宅の当初の目的は、少しでも早く避難所生活を解消すること」だ。住民一人一人の事情に応じて、その全てに配慮しようとすれば「収拾がつかなくなる」と言う。市役所にかかってくる電話を受ければ30分、窓口では「座ったら1時間」という対応を、職員は毎日やっている。

市職員も程度の差こそあれ、ほぼ全員が被災しており、休み返上で働き続けてきた彼らの負担も想像に難くない。まちづくり推進課のドアに貼られた紙には、「入居要件に関して執拗な要求が続くと不当要求行為とみなし警察へ通報する場合があります」と赤い文字で書かれていた。

南志見地区の仮設住宅の外に1人でいた大谷いく江 KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

過疎高齢化で「全滅」する

倒壊家屋はそのままでも、少しずつ新生活を始めている集落がある。1月にヘリコプターで集団避難して大きく報じられた輪島市南志見地区だ。集落に建てられた2つの仮設住宅を訪れると、金沢など市外に避難していた住民たちがそれぞれ4月と5月に戻ってきていた。

輪島市中心部から約10キロ離れた南志見地区は地震後、海沿いの国道249号が土砂崩れで寸断され、一時孤立した。迂回路を整備して5月初めにようやく開通した249号を車で走ると、海沿いに「能登の里山里海」を象徴する白米千枚田が広がる。

今年も約1000枚の田んぼのうち、一部ではあるが田植えが行われた。青空が広がるこの日は、水鏡のようにきらめく棚田と、ぴんと上向く青々とした苗が目に飛び込んできた。

旧南志見小学校グラウンドに54戸建てられたプレハブ式仮設住宅を訪ねると、人けのない敷地内に、独り手押し車に腰かけている女性がいた。集団避難先の金沢から戻って4月12日に入居したという大谷いく江(94)は、約4畳半の部屋で1人暮らし。車の運転どころか歩くことも不自由だ。

集落のみんなと「一緒のつもり」で帰ってきたと言うが、この仮設は日中、住民たちが家の片付けなどに出て行っているのか、人の気配を感じない。息子は県南の能美市で生活しており、大谷は毎日ほぼ静まり返った仮設で1人で過ごす。これは他の仮設住宅でも聞いたことだが、個人情報保護の関係で仮設に誰が入居しているのかは住民同士で共有されていないそうだ。

行政が掲げる「コミュニティー維持」と矛盾する対応だが、南志見地区の大西山という集落で1人暮らしをしていた大谷に話を聞くと、どうやら寂寞とした生活はこの仮設住宅だからではなく、震災前から始まっていた。

「家におったときは私ずっと独りぼっち。それでも家の周りには、草むしったり、菜っ葉作ったりと仕事あったから。わずかな田んぼやけど、みんな真剣やからその米で生活しとったし、(地元の商店の)中島さんなんか、電話すれば大根1本でも、梅干しつけるって言えばシソでも何でも持ってきてくれて、みんなあの人のおかげで生活しとった。でも今は、家帰っても生活できません。1人暮らしは無理です」

大西山集落には、かつては踊ったり唄をうたったりという伝統文化を保存する「民謡保存会」という組織があり、祭りとなれば外から人を呼んで、キリコ(燈籠)を担いでもらってごちそうを振る舞った。だが、にぎわいを見せていたのは過去の話。近年は人がどんどんいなくなり、地震前には20戸ほどに減っていた。

それでも住人たちは育てた農作物を分け合い助け合って生活していたが、地震で一変した。震災で商店が一軒もなくなり、生きる糧としていた田んぼも失われてしまったからだ。大谷は「私の部落、もはや人がいないから。地震で全滅ですね。何ひどいこと言うがやって言われるかもしらんけど、全滅と一緒」と語気を強めた。

能登の名勝「白米千枚田」の一部には今年も青々とした苗が植えられていた KOSUKE OKAHARA FOR NEWSWEEK JAPAN

「能登らしさ」を救うため

震災から半年がたつ今、輪島市が進めているのは、まずは避難所を解消し、仮設を準備して住民を市外から故郷に戻し、家屋解体やインフラ修復を進めること。こうした復旧の次のステップが、新しい街づくり、すなわち「復興」だ。

復興とは、単に従前の状況に機能回復するだけではなく、長期的展望に基づき地域の総合的な構造を経済面を含めて見直し、新しい街づくりを実現することだ。復旧もままならない被災者にとっては、まだ到底考える余裕のない未来かもしれない。

しかし石川県は、5月20日には「石川県創造的復興プラン(仮称)」と題した108ページにわたる詳細な素案を公表した。もともと過疎高齢化が進む奥能登で被災し、住民が金沢などに離散した今、復興という展望を急ぎ提示しなければ人も経済も戻ってこないと考えたからだろう。

「創造的復興プラン」の冒頭、2ページにわたってつづられた序章「能登らしさ」には、こうある(以下抜粋)。 

能登には、壮大な自然が織りなす類稀な絶景と豊かな生命があります。/能登には、自然と共生する人々の、しなやかで美しい暮らしとなりわいがあります。/能登には、人々が心を激しく燃やし、地域が一つになる祭りがあります。/能登には、おたがいのことを思いやり支えあう、人のつながりがあります。/能登がこれからも能登らしくあり続けるために、いま、私たちは、創造的復興を成し遂げなければなりません。

「まずは足元を見て復旧していかなければならないが、未来を見ないとやっぱり元気が出ない。特に若い人はね。そういうなかで、石川県は本当に美しい理念の復興プランを作ってくれた」と言うのは、創造的復興の在り方を有識者らが議論する石川県の「能登半島地震復旧・復興アドバイザリーボード」の委員を務める金沢大学理事の谷内江昭宏だ。

金沢大学では医療支援や被害状況の調査などに関わる複数のチームが教職員や学生によって結成され、発災直後から被災地などで活動した。そして1月末、それらのチームを結集して同学に能登里山里海未来創造センターが設立され、谷内江は現在そのセンター長を務める。

早期にセンターを設立したのは、学生だけでなく教職員の中にも能登出身者が在籍する大学として、10年、20年のスパンで復興にコミットし続けるという意志と覚悟を示すものでもあった。

前述の復興プランの序章を読むと、能登のアイデンティティーに触れたようで胸を打つ。しかしこの理念は、いま打ち出すにはあまりにバラ色すぎると批判されはしないだろうか。筆者が尋ねると、谷内江は「理念というものはバラ色でいいんです」と言い、しばらく言葉を詰まらせた。

白米千枚田近くの輪島市深見町出身の谷内江は、被災した故郷に通いながら、理念と現実の距離も嫌というほど目にしている。しかし彼は、こうも続ける。

「理念というのは実際に何かをやるという段階では邪魔になりがちなものではあるけれど、胸を熱くすることはやはり大事。理念をどうやって現実のものに着地させるかが非常に重要で、そのプロセスに必要なのは、モチベーションを仕組みの中で維持し続けることだと思う」

分厚い「創造的復興プラン」には、能登の6市町と金沢の計7会場で4月に開催された住民たちによる対話の会「のと未来トーク」での発言が多数収録されている。この会に参加した谷内江は言う。

「お年寄りから若者、高校生や小学校5年生まで、みんな自由に話していた。今まで、一般市民がいわゆる本物の自治に参加する体験というのはおそらくなかったと思うんですよ。それが、やってみるとわくわくする。この仕掛けを自分たちで継続できるかもしれないと思い始めたこと、自分たちでやっていくという自信や心構えが身に付いたことが一番素晴らしい成果だった」

一方で、こうした会に出てきて声を上げられる人がいるのと同時に、「いろんな気持ちがあるけれども語る言葉と機会を持たない人」もいるのだろうと感じ取れたことも、一つの収穫だったという。


実際、筆者が訪れたある仮設住宅では、子育て中の中年女性から「コミュニティーって、何?」と憤る声を聞いた。避難所で生活しているときから高齢者はまるで「お客様のように」振る舞い、高校生を含めた若者たちに働かせ、陰では文句や悪口ばかり言っている。そのくせ、子供たちからは体育館やグラウンドなどの居場所を取り上げたままでは、「そりゃ若い子はいなくなるわな」。

彼女は声を震わせながらそう言った。「地震よりも怖いのは、人だった。人の汚らしさばかり見てきて、時間がたつほど余計に苦しくなってきた」。テレビがこの地の現状について表面的な報道をしているのを見るたび「腹が立っている」そうだ。

奥能登に日本の未来を見る

現在の能登の状況は、決して「被災地」だから起きていることではない。過疎高齢化が進む奥能登は、全国各地の未来を先取りしているにすぎない。今年4月24日、民間の有識者グループ「人口戦略会議」は、全体の4割に当たる全国744の自治体が「最終的には消滅する可能性がある」とする分析を公表した。

2050年までの30年間で20~30代の若年女性人口が半数以下になる自治体を「消滅可能性自治体」とするものだが、この推計によれば今回特に被害が甚大だった能登の6市町(輪島市、珠洲市、七尾市、能登町、穴水町、志賀町)は全て消滅可能性自治体とされる。そして、こうした自治体はほかに全国に738もある。

4月9日には、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の財政制度分科会の会見で、分科会で能登半島のまちづくりが議題に上がり、「(人口減少が一挙に顕在化したなかで)コンパクト化・集約化は、住民の意向も踏まえながらやっていくべきではないか」との意見があったことが説明された。

震災直後には、「財政難の折に、消滅していく集落のために莫大な国民の税金を投与すべきか否か」という声もネットを駆け巡っていた。

金沢大学の谷内江は「コンパクト化・集約化」に一定の理解を示しつつ、「何かおかしいなという違和感がずっとあるんです。その違和感というのは、集落や市町の在り方をどう捉えるかについて。単に税金を使ってインフラをつくってもらうということではなく、そこに人のなりわいがあるということの建設的な意味がきっとあるのではないか」と語る。

今回の取材では、被災した方から「これからどうしたらいいですか」と聞かれることがたびたびあった。能登だけにこの問いを押し付けることはできない。

谷内江は、石川県の「創造的復興プラン」に付けられた副題を指した。「能登が示す、ふるさとの未来~ Noto, the future of country」。「ふるさと」とは日本のこと。「能登は日本の未来を映し出す」という意味である。

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