政権崩壊後、レバノンとの国境近くでバシャル・アサドの肖像に反政府派が火を放つ SALLY HAYDENーSOPA IMAGESーLIGHTROCKET/GETTY IMAGES

<軍事クーデターを防ぐため軍部を骨抜きにしたツケ、ロシアとイランの支援が消えたら失脚は速かった>

シリアのアサド政権は12月8日の日曜にあっけなく崩壊した。

急展開の背景には、反政府勢力が戦闘能力を高めたこともある。反政府派を率いたシャーム解放機構(HTS)は自爆ドローン(無人機)や自作の巡航ミサイルを活用し、敵陣深く潜入して暗殺を行うなど独自の戦法を編み出した。

寄り合い所帯の反政府派が「打倒アサド」で一致団結したことも見逃せない。

だが世界を見渡せば、同レベルの手ごわい武装勢力を相手にしても、そう簡単には倒れず、反政府派の完全制圧に成功した政権すらある。


13年間続いたシリア内戦では政府軍のふがいない戦いぶりが目につく局面が多かった。政府軍がとうとうその根底的な弱さを露呈し、政権崩壊に至ったというのが実情だろう。

反政府派の攻勢を前に、大統領の座をあっさり捨ててロシアに逃げたバシャル・アサド。彼とその父親で前任者のハフェズ・アサドが最も恐れていたのは軍事クーデターだ。

父子にとっては、それを防ぐ措置が最優先だった。

中東では1945年以降、2011年にシリア内戦が始まるまで、独裁政権は国内の反乱軍や外国の侵略軍よりも、自国の軍部に倒されるケースのほうが多かった。

親子2代で半世紀余り続いたアサド家の独裁支配が終わり、首都ダマスカスでは市民が平和と自由の訪れを祝った CHRIS MCGRATH/GETTY IMAGES

ことにシリアでは、軍人上がりのハフェズ・アサドがクーデターで政権を握った1970年まで、約20年間も軍部が仕組んだ政変劇が繰り返された。

ハフェズは力ずくの政権交代を自分の代で終わりにしようと、後継者のバシャルともども、軍人の政治的野望をくじくことに全力を注いだ。そのためには政府軍の弱体化もいとわないほどの念の入れようだった。

アサド父子が手がけたクーデター防止策は多岐にわたる。

軍隊内部の意思疎通を非効率化する、軍上層部を自分たちに忠実な人物で固める、兵士の訓練を怠る、複数の情報機関を設置し、軍と互いを監視させる等々。

おかげでクーデターのリスクは抑えられたが、政府軍の戦闘能力は低下し、イスラエルのような外国の強力な軍隊はおろか、国内の反乱軍にも太刀打ちできなくなった。


恐怖支配で兵士の脱走を防ぐ

アサド父子は、軍上層部を少数の親族や自分たちに絶対的な忠誠を誓うイエスマンで固めた。ハフェズは軍隊を5軍編成にした。

兵員数からすれば9軍編成も可能だったが、各軍のトップに据える信頼できる人物が5人しかいなかったからだ。

各軍の横の連携も取りづらくした。そのため内戦勃発まで、さらにそれ以降も、政府軍は編成のまずさと連携の欠如にたたられ続けた。

指揮官同士が口論し、部隊によって戦闘目標が食い違うため、兵士たちは上官の命令に従わず、勝手に判断する始末。上級将校同士が取っ組み合いのけんかをし、銃を撃ち合うこともあった。

引き倒されたハフェズ・アサド像 MURAT SENGULーANADOLU/GETTY IMAGES

内戦勃発後にバシャル・アサドが反政府派を抑え込めなかった理由はほかにもある。

各軍の情報機関の管轄が重複し、情報が共有されず、市街戦の訓練が不十分だったことなどだ。

アサドは長年にわたり自分の属するイスラム教アラウィ派の兵士を優先的に上位の階級に昇進させてきた。そのため政府軍の多数を占めるイスラム教スンニ派の兵士の間では不満がくすぶっていた。

中東全域を揺るがした民主化運動「アラブの春」がシリア各地に広がったとき、アサドが真っ先に心配したのは、デモ参加者の声を聞いて兵士がそちらになびくことだ。そうなればデモの鎮圧どころではなくなる。


そのため特に忠誠心が疑われる部隊には外出禁止令を出し、兵士が市民と接触しないようにした。加えて少しでも反抗的な態度が見られた兵士や将官は片っ端から拘束し、拷問するか銃殺刑に処した。

こうした荒っぽい統制により内戦初期には兵士の大量脱走を防げたが、戦闘の最中に個々の兵士、あるいは小隊が丸ごと戦線離脱するケースが相次いだ。

兵士たちが非武装のデモ参加者に容赦なく銃口を向けるよう、軍上層部はユニークな策略を編み出した。

デモ隊と対峙する政府軍部隊の後方に狙撃兵を配置し、市民を銃撃することをためらう兵士がいたら即座に銃殺し、見せしめにするのだ。

アサドは忠誠心が疑わしい部隊が反政府派に寝返ることを恐れるあまり、使えるはずの戦力のほんの一部しか実戦に回さなかった。これではシリア各地で起きている反乱を一気に鎮圧することは不可能だ。

自力では初めから勝ち目なし

当初、政権側は特定の都市に集中的に部隊を投入し、一定の成果を上げた。だがこの方式では反政府派は政府軍の守りが手薄な地域に逃れ、次の攻撃に備える。

結果、政府軍が一つの都市を制圧しても別の都市が奪われ、モグラたたきのようになる。


こうした非効率的なやり方に指揮官が少しでも口を挟もうものなら、自宅軟禁されるか、ひそかに連れ去られて始末されるのがオチ。軍隊内には相互不信が渦巻き、将官たちは密告合戦を繰り広げるようになった。

反抗的と見なされた指揮官や兵士がどんどん処分されるため、政府軍は兵員不足に陥り、12年までには政権寄りの犯罪集団や民兵組織も反乱鎮圧に駆り出されるようになった。

規律も統制もズタズタな軍隊でも、大規模な砲撃と空爆でじわじわと反政府派を追い詰めることはできた。

13年にイランがシリア内戦に本格的に介入。イラン革命防衛隊の精鋭部隊を率いていた故ガセム・ソレイマニはシリア入りしてわずか数日で、この戦いではシリア軍は「役に立たない」と判断した。

以後、イランの作戦部隊、そしてイランの支援を受けたレバノンのイスラム教武装組織ヒズボラ、それにロシア空軍の支援部隊と、外国勢が必要に応じてシリア軍を使いながら、反政府派と戦う状況となった。

ロシアとイランの介入で、火力では政権側が圧倒的に有利になり、シリアの大半の地域を徐々に掌握。その後の10年間は政権側が優勢を保ちつつ膠着状態が続いた。

だが政府軍の士気低下は目を覆うばかりで、外国勢の支援を失えば、総崩れは時間の問題だった。

ロシアはウクライナ戦争に、イランはイスラエルとの紛争に気を取られ、イランの代わりにイスラエルと戦ったヒズボラが戦力を大幅に失うと、アサドはもはや現状を維持できなくなった。

これほどあっけなく幕切れを迎えるとは誰も思っていなかったが、アサドの失脚は驚くには当たらない。クーデターを防ぐために骨抜きにした軍隊に反政府派の攻勢を止めろと言ってもしょせん無理な注文だった。


独裁政権としては、アサド政権は成功例でも失敗例でもある。バシャルは同時代の独裁者の大半よりも長く命脈を保った。

内戦勃発から13年間も政権の座にしがみつき、その間に少なくとも50万人の国民を死に追いやった。そして土壇場の政権放棄で命拾いし、安泰な引退生活を送ろうと亡命先に旅立ったのだ。

From Foreign Policy Magazine

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