日米で「正義」が問われている icedmocha-shutterstock
<「小さな正義」が裏金問題に鉄槌を下した日本、「小さな正義」が広がらずトランプが再選したアメリカ――ベテラン弁護士が日米両国の選挙から考える「正義のポテンシャル」>
民主主義社会は、民意の争奪というパワーゲームになりがちだ。ただ、その民意がどのように形成されどのように表現されるかは、人や国によって異なる。
日本では自由民主党が総選挙において大敗し(それでも相対多数を維持した)、太平洋の向う側のアメリカでは大統領選挙においてトランプ氏が大勝した。筆者は政治評論家でも選挙分析家でもないが、そのいずれとも異なる視点からこの2つの選挙をひもといてみたい。その際カギになるのは、17世紀のフランスの思想家ブレーズ・パスカルの次に掲げることばだ。
「力のない正義は無力だが、正義のない力は圧政である。......したがって、正義と力をともに置かなければならない」
筆者がこの言葉に出会ったのは50年以上昔の話だが、未だ新鮮味を失わず、それどころか昨今の内外の政治情勢に鑑みると、むしろ深く強く胸に刺さるものがある。何ら具体性のない言葉だが、それだけに時を超えた通有性があり、かつ昨今のものの捉え方の通念となりつつある、細分化と数値化を乗り越える説得力を感じさせる。
正義の内容が不明確だという批判にあらかじめ応えておきたい。それを社会的公正や平等に置き換えても、不明確さが払拭できるわけではない。私たちは正義についていろいろと考えるが、ただ一つ確かなことは、生身の私たちが現実の中で正義を考えるしかない、ということだろう。それは直感的判断かもしれないが、だからと言って間違いというわけのものでもない。それはまた、政治家諸氏(立法者)や裁判所が独占するものでもない。
パスカルの言葉について、くだくだしい解釈の必要はないが、前段のトートロギー(同義反復)は、何より(政治的)力とは別に正義が存在するということ、無力であろうが何であろうがとにかく正義が存在するということに意味を持たせている。だが、その正義の存在の形式は様々だ。わが国の総選挙とアメリカの大統領選挙が、図らずものその形式の違いを見せつけてくれた。
また、「法の支配」や「法治主義」が行きわたった現代に文明国家においては、やや粗っぽくいってしまえば、(政治的)力と正義は一応ともに置かれているとも言える。だが、そのように共に置かれた力と正義の関係性は、一様ではない。力は正義を凌駕し圧倒することがある。正義が力より高いところに位置することもある。法学者は、これを司法(が正義を体現していると仮定して)の優位と呼ぶこともある。
裏金問題に怒った日本の有権者の「小さな正義」
まず、わが国の総選挙を振り返ってみよう。
政治学者や選挙専門家は明言していないが、選挙民の正義感があの結果を生んだ、という捉え方ができる。それは不平等や根拠のない特権意識を許さないという明確な意思だ。
平等(不平等でないこと)であることは、私たちの正義感に強く訴えかけてくる。何に関してどの程度の平等かという問題が常について回るが、今回はそうした疑問を吹き飛ばすに十分なインパクトがあったようだ。
もちろんそれが全てだと言っているのではない。投票行動を単純化することはかえって危険だ。投票行動の動機は結構複雑に入り組んでいる。正義感だけで全てを決するわけにはいかない。
ただそうは言っても、現実はよく見ておく必要がある。そして、その現実の受け止め方自体も一つの(メタ)現実となっている。
まず、これは「裏金問題」と評された。その評価自体に政治性が強いことを誰も否定しない。しかし、事実の歪曲とまでは言えない。同様に、これを単なる事実の「不記載問題」と評することも政治性を帯びるが、だからと言ってこの見立ても歪曲とまでは言えない。つまり、それは収支報告書に記載されなかった「裏金」の問題だ。
そこまでは事実だが、そこに相異なる真逆の価値観が付着している。
一方に正義感がある。その根底にあるものは平等という価値に他ならない。法律に違反すれば庶民は厳しく罰され不利益を被る。しかし、政治家諸氏は不利益どころか、のうのうとして利益を享受している。また、多額の収入があれば、市民には納税義務が発生し違反には刑罰はじめ種々の不利益が伴う。しかし、政治家諸氏はその不記載の裏金に納税義務がないという。こんな不平等(特権)が許されるだろうか。
特権的取扱いは、それを認めざるを得ないような特別な理由がある場合にのみ限定的に認められるものだ。例えば、国会議員には3つの特権(歳費特権、会期中の不逮捕特権、国会内での発言の無責任)が認められている。それぞれ歴史的背景があって合理的な理由があるからこそ、憲法で定められている。しかし、この特権はそれ以外に広げようがないし、広げてはいけない。にもかかわらず国会議員が特権的に振舞ったからこそ国民の怒りが爆発したのだ。
他方、これは単なる不記載に過ぎず、それほど強い非難を浴びるほどのことではない、という受け止め方(よく言えば価値観)がある。少なからぬ政治家諸氏がそう受け止めていたらしい。なぜなら、彼らの発言をよく聞けば、自らの行為を反省している人は意外に少なく、「世間をおさわがせしたこと」のお詫びなのだ。世間が騒いでいることの原因に思いを致すことがない。これでは何ら反省していないし謝罪もしていないに等しい。つまり、悪いとは思っていないらしいのだ。
総選挙の結果、自民党は議席を減らし、石破首相は少数与党に支えられて第2次内閣を発足させた。自民党にお灸をすえたという意味で正義が貫徹したと見るのか、自公内閣が存続したという意味で正義の問題は小さな出来事に過ぎなかったと見るかは、実は今後の政治を含む社会全体の動きに係わってくる。
裏金に係わった問題議員が当選したことによっていわゆる「禊(みそぎ)」が済んだという受け止め方をする人もいる。力が正義を凌駕すると言っているわけである。正義を力とともに置こうとするなら、忍耐強い持続力が必要だ。どうせ国民はすぐに忘れてしまうと高を括っている政治家諸氏の思惑に多少なりとも抵抗する意思があるなら、その持続力を忘れてはならない。それは小さな正義の実践だ。
それにしてもその正義は確かに小さい。早くもパワーゲームに翻弄されかかっている。だがそれは確かに存在している。処世術、利益誘導、権力欲、打算、忖度、国家百年の大計、目先の一票......。正義はこれらの激流に浮かぶ木の葉のように見えてしまうが、まだ川底に沈んではいない。また、沈むことを放置してもいけない。
広がらなかった共和党員の「小さな正義」
太平洋の向こう側に、興味深い共和党支持者(おそらく共和党員)がいた。彼は共和党のトランプ氏ではなく民主党のハリス氏を支持した。トランプ氏は、事実に基づかない言動を繰り返し(例えば「選挙が盗まれた」など)、あらぬ方向に選挙民を誘導した、それは正しくないことだ、ということらしい。道徳性を備えた人物の集合にこそ正義の存在場所が見いだされ、その社会の指導者にも道徳性が求められるという考えは、何ら不当なものではない。
だが、これも繰り返しになるが、正しいか否かだけが投票の動機になるわけではない。そのことは日本でもアメリカでも変わりない。しかし、アメリカには特殊な事情がある。それは人々が求める政治的指導者(大統領)のイメージの違いだ。アメリカでは圧倒的に強い指導者(大統領)が求められる。先ほどのパスカルの言葉を標準的アメリカ人に聞かせたら、おそらく間違いなくこんな答えが返ってくるだろう。
「強い指導者がいなければ(つまり力がなければ)、正義は守れない」
もちろん、逆に力だけが投票の動機になるわけではない。民主党とハリス氏のマイノリティーや中絶に対する政策等が逆ばねになってトランプ氏に有利に働いたという分析もある。トランプ氏を大統領にしなければ、アメリカを二分するような暴動が再び起きかねない、という変なトランプ支持論もあった。あるいは、「MAGA(アメリカを再び偉大に!)」という訴えが思いのほか響いたのかもしれない。だとしたら、少なくとも現時点ではアメリカは偉大ではないことをトランプ支持者も認めていることになる。
1950年代から60年代にかけて、アメリカが最も光り輝いた時代、ジョン・F・ケネディは、政府が何をしてくれるかではなくアメリカ国民が政府のために何ができるかだ、と問いかけた。経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの『ゆたかな社会」(邦訳・岩波現代文庫)はその光輝いた時代のアメリカをくっきりと描いてくれた。
アメリカはその後ベトナム戦争にのめり込む。アメリカは負けた。ベトナム人はアメリカに勝った唯一の国であることを誇っている。確かに誇るに値することかもしれない。日本はそのアメリカにその昔ぼろ負けした。しかし、アメリカもベトナム戦争以降、イラクでもアフガニスタンでも、負けたかどうかはともかく失敗続きだ。輪転機を回し続け世界中にドルをばら撒いたが、その結果かどうかはともかく、アメリカのラストベルトの白人は、今現在トランプ氏の吐き出す「MAGA」という幻想にしがみついている、と見えなくもない。正義などと間延びしたことを言ってはいられないのだ、そう考えるトランプ支持者がいてもおかしくない。確かに正義は空腹を満たしてくれない。だがそれにしても、「MAGA」という言葉を聞く度にアメリカという国がみすぼらしく思えてしまうのは筆者だけだろうか。
間違いなく言えることは、今回の大統領選挙の結果を受けて「選挙が盗まれた」と言って来年の1月議事堂を襲撃する民主党支持者はいないだろうということだ。
トランプ氏の言動が正しくないとしてハリス氏支援に回った共和党支持者の行動は、結果的に広がりを見せなかった。彼の小さな正義は押しつぶされたのだろうか。いや決してそうではない。正義を力の物差しで測ってはいけない。
ただ、アメリカの正義は私たちが考えている以上に多様な広がりを持っているらしい。今や死語になりつつある「拝金主義者」という言葉がアメリカ人に相応しいなどと言うつもりはないが、アメリカという国全体が金銭的利得と正義をえらく近づけて考えているらしいことも疑いない。貧富の著しい格差も、それがアメリカ人の信奉する自由の結果なら、貧富の格差を是正するために自由を抑圧する必要はない、と考える人も多そうだ。それもアメリカの正義に違いない。
アメリカは挑戦的な国だ。だから実験的でもある。アメリカは正義の実験
をしている、と見えなくもない。だが、正義の味方の保安官を演じるゲーリー・クーパーやジョン・ウェインは遠い過去の時代の人だ。彼らの代わりに、白人の警察官が黒人を殺すこともある。その警察官は裁判にかけられ相応の刑罰を科せられる。それを彼らは適正手続き(due process)と呼んでいる。彼らの実験は続く。
「小さな正義」は世の中を変える原動力になる
これまで、正義を定義づけることなく「正義」という言葉を使い続けた。
正義も多様で且つ多元的だが、ここでは消極的定義を挙げておきたい。つまり、「正義とは何でないか」を問題にしたい。
まず、当たり前のことだが、正義とは力ではない。例え力によって支えられることがあったとしても、力とは異なる。それが出発点だ。
次に、そのことの必然的結果でもあるが、正義は多数決では決められない。いろんな場所でいろんな人が言い古したことだが、「数は力なり」という力の論理に屈したりはしない。
逆に、マイノリティーの人権は守られるべきだが、同調もしない。人としての尊厳は認められるべきだが、それが人に特権を与えるものであってはならない。正義は特権を憎む。
正義は型にはめにくい。それは単なる感情ではないが、直感を排除しない。科学や文明は現代人に多くの便益をもたらしてくれたが、同時に多くのものを奪いとってしまった。その奪いとられたもののうち際たるものが私たちの直観力だ。CPUもAIも人の直観力には届かない。
正義は様々な在り方をする。正義の人、正義の理念、正義の達成、正義の大小、等々。いかに小さな正義であっても、それは力以上に世の中を動かすことがある。それは古臭く漠然とした理念ではなく、今現在、そして将来この世の中を変え切り開く原動力になる余地がある。
わが国の総選挙もアメリカの大統領選挙も、そして兵庫県知事選挙も単なる力の争奪戦として終わらせてはいけない。
*筆者は第一東京弁護士会所属の弁護士。大分県生まれ、一橋大学経済学部卒。1978年弁護士登録。日弁連副会長、関東弁護士会連合会理事長、第一東京弁護士会会長などを歴任。
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