国際金融を知り、国民生活を考える視座から語り尽くす。

中尾武彦(なかお・たけひこ)1956年生まれ、1978年東京大学経済学部卒業、大蔵省(現・財務省)入省。国際機構課長、主計官、国際局長などを経て、2011年財務官。2013〜2020年アジア開発銀行総裁。2021年からみずほリサーチ&テクノロジーズ理事長。著書に『アメリカの経済政策』『アジア経済はどう変わったか』など(撮影:尾形文繁)一時1ドル160円という歴史的な水準に達した円安。背景に何があるのか。どんな手を打つべきなのか。財務官やアジア開発銀行総裁を歴任した中尾武彦みずほリサーチ&テクノロジーズ理事長に聞いた。※本記事は2024年5月12日6:00まで無料で全文をご覧いただけます。それ以降は有料会員限定となります。

――財務省は連休中に9兆円規模の為替介入を行った模様です。このタイミングをどう見ますか。

日銀の円安容認と見える姿勢が意識されて非常に投機的な動きになっていることに対して、通貨の安定のために為替介入するのは適切だったと思う。

「日米金利差からすれば、もっと円安になっていい」というのは、まるで為替が金利差だけで決まっているような捉え方だが、為替の要因はそれだけではない。ここまで円安が進むのは投機的と言わざるをえない。

「行き過ぎた」円安、3つの要因

――行き過ぎた円安の要因とは。

少なくとも3つある。

1つは、今も言った金融政策の違いによる金利差の問題だ。

アメリカはインフレに対応するために金利を上げてきた一方、日本はまだ基調的にはインフレになっていないとしてゼロ近傍の金利政策や大規模な国債購入を続けている。

金利を上げるのはインフレ率が高いからであって、インフレ率が高ければ通貨の価値、為替は将来に向けて下がっていくはずだ。アメリカの金利が高いからと言って今、ドルが高くなる理由は必ずしもない。

しかし、市場の動きを見ると、金利の高い国の通貨が高くなるのが現実だ。

2つ目は経常収支だ。

昔のように圧倒的な黒字ではなく、また、企業が海外で儲けたドルは再投資に向かいがちで、円に換えようとする動きは少ない。サムソンを抱える韓国やTSMCを抱える台湾、プラットフォーム企業を抱えるアメリカのように、絶対的な競争力を持っている産業を見つけにくい。

日本の競争力が全体として落ちていることの反映という面がある。

3つ目は、これはまだそれほど激しく進んでいるとは思わないが、日本で異例とも言える拡張的な財政政策と金融政策が続いていることによって、日本経済の持続可能性が疑問視されている面もあるのではないか。そのため国民が海外資産を持とうとする。

日本経済全体に対する信認という面もあるかもしれない。人口減と少子高齢化によって日本経済が拡大するストーリーが描きにくい。

――かつては、「円高は日本の競争力を削ぐ」と経済界などから問題視されましたが、円安になったのに競争力は落ちているのですか。

確かに、行き過ぎた円高は、特に輸出産業に打撃となる。円建ての手取りが減るし、円建てで同じ額を得ようとしたら現地で高い値段をつけなければならず売りにくい。輸出企業にとっては今でも円安は望ましい。

しかし、食糧、資源、雑貨などを輸入する企業にとっては打撃だし、消費者は物価上昇で基本的に損をしている。今の株価上昇は、輸出企業や海外資産を持つ大企業などの利益を反映しているが、それほど喜んでばかりはいられない。

円安は格差の問題でもある。スケトウダラを輸入してかまぼこを作っているような中堅企業は大変だし、スーパーでかまぼこを買う国民の負担は増す。国民経済全体にとっては、一定の円の強さ、為替水準を保つほうがいい。

円安に頼った産業競争力は、本当の競争力ではない。より高い価値のものをより効率的に作るという円安に頼らない競争力が必要だ。それは技術力に加え、ブランド力や知的財産権、強いマーケティング力、価格交渉力を持った産業があるということだ。

IMF購買力平価では1ドル90円が均衡点

――財務官として2011年、円高に対して13兆6000億円の円を売って、1720億ドルのドルを買う大規模な為替介入を行いました。10数年を経て逆に、円安抑止のための円買い介入が行われています。

円売り介入した当時は、明らかに円高が行き過ぎていた。

2008年のリーマンショックの後、アメリカの急速で大規模な激しい金融緩和を受けて一時1ドル=75円まで円高になったが、円安の方向に必ず戻ってくると思っていた。行き過ぎた、急速な円高に対抗する必要があった。

一方、今の為替レートは、明らかに行き過ぎた円安だ。しかも円安に向かうスピードが加速している。

――「行き過ぎた」と言うのは、何か基準があるのですか。

長期的な均衡を示す一つの考え方として、購買力平価がある。

たとえばビッグマック指数がその一種だが、同じビッグマックを同じ値段で買おうとすると為替はいくらでなければいけないか。今年1月時点では1ドル79円だった。

今、為替は1ドル150円台だから、ビッグマックを基準にすると、日本の通貨価値は2分の1になってしまっている。あるいは物価が2分の1になっている。

購買力平価は本来、貿易財の間で長期的に成り立つものだ。日本のものが安ければアメリカは日本から買うから、本来行き過ぎた円安は修正されてゆくはずだ。

購買力平価はさまざまな指標があるが、IMF(国際通貨基金)も各国間で基準を統一した品目構成で算出した指標を出している。2023年時点で1ドル90円だ。

物価上昇率はこの10数年、アメリカのほうが高いから、購買力平価からすれば日本のほうが為替は強くなっていかなければならないが、逆に弱くなっている。

――日本側で物価が上昇し、購買力平価のほうが修正される可能性はないのでしょうか。

為替と物価の双方が修正されていく可能性はある。だが、今の円の水準は明らかに安過ぎる。本来あるべき円の実力よりも、過小評価されていることは確かだ。

各国の賃金、所得をドル建てで比較すると、日本は非常に低くなっている。海外から見れば、不動産も安いし、株も安い。日本のモノがどんどん買われて、インバウンドも増えているからよかったということではないはずだ。

円が安くなっていることは、日本が貧しくなっている、円の購買力が減っているということだ。外国に観光に行くのもこわくなる。本来、喜ばしいことではない。

為替介入の弾薬=外貨準備の実態

――円の過小評価は、財務省の為替介入で修正できるのでしょうか。

円買いの為替介入に用いる外貨準備は1.3兆ドル(3月末時点)、1ドル155円で換算すると200兆円と実はかなり大きな規模だ。

人によっては、「外貨準備の中に為替介入には使いにくい資産もある」と言うが、流動性が低く、使いにくかったら外貨準備の定義には入らない。一定のスピードでドル預金に換えて介入に使える資産だから外貨準備になる。

ただ、外貨準備が大きいとはいえ、さまざまな要因で決まっている為替の水準を介入で動かすことは、為替は市場で決まるべきというG7の考えにそぐわないうえ、投機に対抗するのは効果があっても、趨勢に影響を与えることは難しい。

もっとも、輸出競争力につながる円高修正の介入よりは、円安修正の介入のほうが各国の理解は得やすい。

円安の背景には構造的な要因もあり、為替は均衡する水準まで急に修正されるわけではない。ただ、行き過ぎている分についてはある程度、戻るだろう。

――「行き過ぎた」というと意図せずに降ってきた状況のようですが、あえて円安にしてきた面もあるのでは。

G7では、為替を安くするために金融政策を使ってはいけないとしており、日本も同意しているが、日本の異次元金融緩和は事実上、デフレ対策を目的としながら、同時に円高修正のためにもなっていた。

当初言っていたように、2年程度はよかったと思う。2013年秋には為替が1ドル100円を超える水準に戻っていた。長く続け過ぎたために、いろいろなものが本来の均衡から行き過ぎた。

新興国は介入に利上げで通貨の信認を保つ

――どこかで引き返すべきだったのでしょうか。

問題は、デフレに対してインフレターゲット(物価目標)に長くこだわり続けたことにあるのではないか。

インフレターゲットは、金融引き締めとあわせてインフレを抑制するには有効だが、デフレのときには、有効性に疑問符が付く。

いつ基調的なインフレ率2%を達成できるのか保証はどこにもない。賃金も上がり続ける保証はない。物価目標が実現するまで金融緩和を続けるとなると、いったいいつまで続けるのかということになりかねず、副作用も大きくなる。

日銀は物価の安定が任務だが、物価の基調的な安定のためには、やはりマクロ経済全体の安定を図らなければならない。そこには当然、為替も財政の状況も入ってくる。物価には為替が直接影響するのだから、日銀は為替の動向も踏まえたほうがいい。

物価至上主義ではなく、経済の全体像をみなければならない。

新興国では、為替が大きく下がったら通貨や経済政策の信認に悪影響があるので、外貨準備を使って介入すると同時に、金利も上げていくのが普通だ。

――日本は新興国のような政策をとるべきだと。

そうは言わないが、物価上昇が一定水準に達することだけを目標としていてよいわけではない。今は消費者物価も上昇している。アメリカの金融政策にある程度対応して金利を上げてもいいのではないか。

今後、短期的には行き過ぎた円安は多少戻っていくだろうが、円安の背景にある長期的な競争力や金融規律、財政規律の問題には取り組んでいかなければならない。

――財政については、「赤字や国債発行額は問題ではない」という主張が人々の支持を集めています。

「財務省の役人が『国の借金は返済しなければならない』と言うのは大間違い」などと聞くが、現在GDP比約260%の公的債務を返済してゼロにすることなど財務省も考えていない。不可能だし、適切でもない。

資産運用、安全資産の金利指標、金融取引の担保などのために国債市場がなければ困るし、インフラ投資のように、将来にわたって利益をもたらす事業を、お金を借りて行うのは企業でも政府でも当たり前だ。

問題なのは、リファイナンス(借り換え)ができなくなるリスクだ。

一定の金利で借り換えられなくなって何が起こるかといえば、国債価格が急に下がって金利が急に上がる。「その時には日銀が買えばいい」と言う人がいるが、日銀がどんどん国債を買っていると、日本という国に対する信認が失われて、為替が急速に下がっていく。その場合、輸入物価の上昇をきっかけにアルゼンチンのような激しいインフレの状況にもなりうる。

そういう状況を為替介入で食い止めるのは、いくら日本の外貨準備が大きいとはいえ不可能だ。

「ワニの口」では伝わらない真の国民負担

――今の円安は、国の信認の問題に足を踏み入れている可能性があるでしょうか。

キャピタルフライト(資本逃避)が起きているかといえば、そこまではいかないが、富裕層などでは海外に資産を置いておかなければまずいと思う人が増えているとは思う。今すぐ危機に陥るわけではないが、公的債務のGDP比が上昇を続けていることは問題だ。

キャピタルフライトが顕在化しないうちに、財政規律を回復しなければならない。

そのためには社会保障の効率化などとあわせ税金を上げざるをえない。それを避けようとすると、いずれ大きな国民の負担が生じかねない。

負担とは、将来の人が借金を返さなければならないという意味ではなく、借り換えがスムーズにできなくなって経済が大きなショックを受け、国民の負担になるということだと考えている。

為替が急落し、金利が急上昇し、インフレが急進する。そのようなショックに見舞われれば、1997年に通貨危機に陥った韓国でIMFが行ったように、歳出を減らして歳入を増やす、激しい構造改革を行うという国民にとって非常に厳しい調整を要する。

財務省はこれまで「ワニの口」と言って、一般会計の歳出が歳入を上回って国債発行で穴埋めしていることを主に問題視してきたが、真の国民負担は「今の状態は持続可能か」「スムーズに借り換えが続けられるか」「大きな調整コストを伴うショックに陥らないか」であることを丁寧に説明していかなければならない。

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