木曽路の長野県奈良井宿 Venus.1777 - shutterstock-

<家賃は月4875円、銭湯代は98円...その日暮らしの江戸っ子が唯一お金をかけた「一生に一度の大イベント」とは?>

江戸時代、人口100万人を超えた大都市・江戸。風呂場のない狭い長屋に暮らす町人たちは、毎日湯屋に通うほどの風呂好きだったという。

歴史学者・磯田道史さん監修の『新版 江戸の家計簿』(宝島社)より、一部を紹介する――。


1K、9平米の家賃は月4875円だった

徳川家康は江戸の町を、城を中心に武家地、寺社地、町人地の3つに分けた。城の周囲にはそれを守る武士を住まわせ、この武家地を取り囲むように寺や神社を配置した。

町人地は今の中央区、台東区、千代田区の一部だった。京間60間(約120m)四方の町割がされ、町割の通りに面した町屋(長屋)を表店、裏に並んだ町屋を裏店と呼んだ。表通りには大店や一戸建ての商家が軒を連ね、路地を入ったところには裏店があった。

多くが棟割長屋で、最小のものが、間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)、面積約9.72m²の、いわゆる「九尺二間の棟割長屋」である。路地に面した3尺(約90cm)幅の腰高障子が入り口で、入ると土間があり、水がめや流し、かまどがある。奥には4畳余りの居間兼寝室という1K。家賃は現代感覚で算出すると、ひと月わずか4875円ほど。

長屋の家賃は9畳で4875円。蝋燭は約10万5000円もかかった[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]

また、当時の照明はというと、行灯か蠟燭、暖や熱は主に炭を使った。明和9(1772)年の炭の平均価格は1俵で銀4.1匁、すなわち現代価格で約4300円。蠟燭はピンからキリまであるが、高級な会津蠟は4.7貫目で約10万5000円にもなった。

長屋を管理する大家さんは親同然

路地の奥には共同の井戸、便所、ごみ溜めがあった。

長屋を管理するのは、地主や家持(家主)の代理人、大家だった。落語にもよく登場する大家は、家賃の取り立て、長屋の維持管理のほか、店子の身元引き受け人、旅行の際の手形申請、仲人、また、もめ事の仲裁、さまざまな相談役まで引き受け、まさに親同然だった。

大家の基本給は入居時の礼金や家賃の3〜5%、そして共同便所の糞尿の売買代金だったという。

水質が悪い下町では「水屋」で水を買った

江戸時代には、多摩川を水源とする玉川上水、井の頭池を水源とした神田上水が整備され、最盛期には6つの上水があったという。

8代将軍・徳川吉宗の頃に千川上水、青山上水、三田上水、亀有上水の4つが廃止され、江戸時代を通じて、玉川上水と神田上水の2大上水が江戸庶民の生活を支えた。


当時の水道は、木や石でつくった樋を水道管として利用し、土地の高低による自然流下式のもの。現在の東京も同じであるが、江戸市中は坂が多いため、緻密な計算を要した。

公儀6000両から7500両もかけて竣工されたという玉川上水は、羽村から四ツ谷大木戸までを多摩川から地表に水路を通した開渠で流し、江戸市中には、暗渠で給水していた。四ツ谷大木戸には、水質や水量を管理する水番屋が置かれていたという。

江戸庶民たちはこの水道の汲み出し口となる井戸を利用していたが、本所・深川などの下町では、上水が隅田川を越えられず、「埋め立て」という土地の問題で水質も悪い場合が多く、飲料水に向かなかったという。

そのため、飲料用の水を売って歩いた「水屋」が江戸では成立する商売だった。水屋では1荷、すなわち天秤棒の前後の桶2つ分を、4文ほどで売ったという。現代の価格で63円ほど。あまり実入りの多い商売とは言えなかったようだ。

お風呂好きの江戸っ子で湯屋は大繁盛

江戸時代、長屋はもちろん、普通の民家にも内風呂はなく、庶民は湯屋に通った。何度も大火に襲われたため、火元となることを恐れたのが理由だった。

19世紀初め、江戸には湯屋が500軒以上あった。江戸っ子は毎日湯屋に通うほどの風呂好きだったのだ。入浴料は幕府によって公定価格が決められた。文政9(1826)年は大人6文、約95円だった。

江戸前期はサウナのような蒸し風呂が多く、現在のような浴槽に湯を張ったのは、後期である。また、もともとは男女混浴だったが、寛政の改革で風紀が乱れるとして禁止された。

湯屋に入ると、まず番台で、お金を払う。脱衣所、洗い場と続きその先に石榴口と呼ばれる入り口がある。腰をかがめなければならないほど低く作って、熱気を逃さないようにした。その奥が浴槽だ。

洗い場には三助という奉公人がいて、客の体を洗っていた。初期には湯女という女性が行っていたが、こちらも風紀上の問題から男性となった。

男たちの社交場、2階に上がるには250円

石けんがなかったので、体を洗うには糠を袋に入れて使用した。湯屋で貸し出し、使った後は返却した。


また、女湯の洗い場には軽石と重石があり、軽石でかかとなどをこすり、重石を2つ打ち合わせて下の毛の処理をした。

男湯から2階に上がると休憩所があり、風呂上がりに世間話をしたり、将棋や囲碁を楽しんだりと、男たちの社交場となっていた。2階に上がるには16文、約250円の料金がかかった。

湯屋で働いていたのは、男は湯番と呼ばれ、湯番の責任者が湯番頭で、番台に座って湯銭を受け取り、浴場の監視をした。

垢すりは客の垢をこすり落とし、湯汲みは客の注文で湯を杓子で汲んで渡すというのが仕事だった。竈焚きは三助が行った。

伊勢参り一行の散財は250万円以上!?

「一生に一度は伊勢参り」という諺もある通り、移動の制限もあった江戸時代の庶民にとって伊勢参りは大きな楽しみであった。江戸時代を通じて4度ほど大きな「伊勢参りブーム」が起こったが、なかでも文政13(1830)年の流行は、最大級のものだった。

伊勢神宮へ詣でる人々はその手前で宮川の渡しを通るが、この年の3月末から9月までにおよそ486万人の旅人たちが川を渡ったという。

とはいえ、江戸時代の旅は、当然のことながら自分の足で歩かなければならない。江戸からは片道で20日ほど、往復で1カ月以上の旅となる。さらに参拝の後は京や大坂、西国を周遊することが大半なので、旅の行程は自然と2カ月余りになった。

旅費も馬鹿にならず、また伊勢に滞在した際の神楽奉納の初穂と世話になる人々への礼金などを合わせると莫大な費用がかかった。

各村々では伊勢講を組織し、講員で積み立てをし、集めた金で利息を取って貸し付けるなど運用して、代表者もしくは講員で参拝する方式を取っていた。

讃岐国・志度ノ浦から伊勢講でやってきた20人の一行を例に取ると、伊勢に着いた一行は、「御師」と呼ばれる伊勢信仰を全国津々浦々に伝える布教者の歓待を受ける。御師は、もとは純粋な布教者だったが、江戸時代になると、手代を通じて全国的に檀家を組織し、参宮者の旅を斡旋する営業マンのような役割を演じた。

人の一行が初穂として支払った金額は礼金なども合わせるとおよそ40両2分。現代価格にするなら252万円にもなる。現代感覚なら1200万円にも上る大金である。これに旅費が加わるのだから、庶民にはまさに一生に一度の楽しみであった。

6万~12万円の価値があった伊勢音頭の大踊り

伊勢参りの楽しみは、参拝ののちに、内宮と外宮の間にあった歓楽街「古市」での遊びであった。古市には見世物小屋や芝居小屋のほか、遊郭が軒を連ねており、多くの旅人が「精進落とし」と称して、古市を訪れた(寺社仏閣の参拝後に付近の色街で歓楽に耽ることを俗に「精進落とし」と言った)。


最盛期には遊女の数は1000人にも達し、江戸の吉原、京の島原と並んで江戸時代の三大遊郭と称されるほどの賑わいを見せたと伝わる。この古市で、特に有名なのが遊女たちによる伊勢音頭の大踊りである。

張見世のない古市の遊郭では、客が来ると遊女たちが出迎えて酒宴となり、三味線に合わせて歌や踊りを始めた。いわばこの踊りの輪が張見世の代わりとなり、それを見ながら客は相手を決めたのである。

伊勢音頭の見物は10人までが金1両、それ以上だと金2両となった。現代価格で言えば、6万3000〜12万6000円ほどの金額である。この踊りだけを観覧しに女性客も多数訪れたというから、その人気ぶりが窺える。


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※当記事は「PRESIDENT Online」からの転載記事です。元記事はこちら。

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