これは1998年、26年前に袴田巌さんが無罪を訴える手紙から構成したドキュメンタリーです。2024年11月9日、袴田巌さん(88※2024年10月現在)の無罪が確定し、袴田さんを取材した里見繁さん(毎日放送OB)はこうコメントしています。
「この度の無罪判決で、犯行着衣とされた5点の衣類は捜査機関の捏造だと、裁判官は言いました。実は50年以上も前に、袴田巖さんは獄中で一人推理し、この捏造を見破り、姉に宛てた手紙の中で『権力犯罪』だと書いています。裁判官に袴田さんと同じ眼力があれば、こんな冤罪事件は起きなかったはずです。
袴田さんの獄中からの手紙、『無実の叫び』を聞いてください。」
1966年、静岡県のみそ製造会社の専務一家4人が殺害された事件で袴田さんは当時、この味噌会社の従業員でしたが、元ボクサーという理由などから、容疑者リストに挙げられ、逮捕されました。裁判では一貫して否認し続けましたが、一審で死刑判決。控訴、上告も退けられ、1980年に死刑が確定しました。
(袴田巌さんの手紙より)
神さまー。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。ここ静岡の風に乗って、世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って、僕は叫ぶ。お母さん。
「意外ナ判決結果デ、事実誤認モ著シイ」獄中で絶望…
MBSは1998年に放送されたドキュメンタリー番組の中で、袴田さんの姉・秀子さんや弁護団を取材。袴田さんが獄中から家族に宛てた手紙は、精神状態が少しずつ変わっていく過程がその文字と内容から読み取れます。
裁判所から捏造と指摘された「5点の衣類」が見つかった時には、袴田さんは期待を込めて秀子さんに「真犯人が動き出した証拠」と綴っていました。しかし、静岡地方裁判所は5点の衣類が犯行着衣であり、それらが袴田さんのものであるとして、死刑を言い渡しました。
(袴田巌さんの手紙より)
意外ナ判決結果デ、事実誤認モ著シイノデ即座二控訴致シマシタ。御母サン 私ノコトデ無用ナ心配ナドシナイヨウ早ク全快シテクダサイ 巌より お母さんえ
それまで、ひらがなと漢字で書かれていた手紙でしたが、カタカナが使われ、母の心情を気遣う内容が記されていました。
長い拘置所生活で壊れていく精神
その後、長く拘置所での生活送った袴田さんの精神状態は悪化していき、手紙の文字も乱暴になり、面会でも家族と会わなくなっていったといいます。
(袴田さんの手紙より)
私が独房内を歩くと、その度に蛍光灯がチカチカするように感ずる。電灯が無数のガラスに反射している。そして私を見つめている。風も私に向かって吹いている。本や新聞を開くと悪いことがその中に潜んでいる。
58年越しに静岡県警が謝罪
元ボクサーという理由で58年もの時間を国に奪われた袴田さん。当時の手紙にはこのようにつづられていました。
(袴田さんの手紙より)
わたくしの心身は反則によってノックアウトされたまま踏みにじられている。そのノックアウトの底に身を横たえてしまうしかないのか。そして 1 日 1 日、正義を殺されていくのか、これがわたくしの生である。わたくしの無念とするところである。
10月21日、無罪が確定した袴田巌さんのもとに、静岡県警の津田隆好本部長が謝罪に訪れました。
(静岡県警 津田隆好本部長)
「逮捕から無罪確定までの58年間の長きにわたり言葉では言い尽くせないほどのご心労、ご負担をおかけし申し訳ありませんでした。今後、静岡県警察といたしましましては、より一層緻密かつ適正な捜査に努めてまいります。申し訳ありませんでした」
1分40秒にわたって深々と頭を下げ、謝罪しました。一方、もう一つの当事者である検察は、検事総長の談話として「捜査機関のねつ造と断じたことは強い不満を抱かざるを得ません」などと発表していて、直接の謝罪の予定については明らかにしていません。
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