「涼しい顔」はその使い方で合っている?「満面の笑顔」は?TBSテレビの言葉の番人、内山研二が最近気になった事例を紹介する。

はじめに

職場は、テレビ局の「審査部」です。番組やCMなどの表現に問題がないかを確認し、どのような表現がより良いのかを探る職場です。その「審査部」で、放送表現や放送用語を担当しています。

「言葉はいきもの」といわれ、本来とは違う意味や使い方をしている言葉は多くあります。その本来とは違う意味や使い方を、どこまで許容できるかに悩まされます。そんな職場で出会った印象深い「言葉たち」をいくつかご紹介します。

漢字と数字で違いあり

「一番」について、こんな経験をしました。

「一番」はもちろん「最初」「第一」といった意味です。また、この「一番」には「最も」「この上なく」という意味もあります。「私が一番好きな季節」「この色が一番適している」「一番やっかいな条件」で使われる「一番」は、それぞれ「最も好きな」「最も適した」「最もやっかい」という意味ですね。

ところが「一番(漢数字)」ではなく、「1番好きな季節」「1番適している」「1番やっかい」など、算用数字(アラビア数字)で表記するのを目にします。この場合の「1番」は許容できるのでしょうか。

「一番」は、もちろん「最初」という意味があるので「1番」と同じです。しかし「一番好きな季節」と表記された「一番」は、副詞として使うことで「最も」「この上なく」という意味がでてきます。一方、「1番」の「1」は単に数字です。「順番」「番号」の意味にとどまり、「最も」「この上ない」という意味はありません。「最も」「この上ない」という意味で使うなら「一番」であって「1番」ではないのです。

とはいえ、「最も」「この上ない」の意味で「1番」を目にするのは、「No.1(ナンバーワン)」を「最も」と位置づけて、視覚的に強調する効果を狙ったのではないかと想像します。とかく強調表現が多い昨今です。「一」より「1」のほうが目立つのかも知れません。

すると、いずれは「1番好きな季節」といった表記に慣れてしまう日がくるのでしょうか。「一番」気になることの一つです。

入手方法によっては、使えません

「転売ヤー」を、俗語として掲載する国語辞典(三省堂国語辞典・第八版)があります。「転売ヤー」を目にしたり、耳にしたりする機会は多く、売り買いの世界で定着してきた言葉だからこそ、国語辞典に掲載されたのでしょう。

さて、その「転売」に戸惑うことがありました。「転売目的で盗んだ」といった表現が、ときどき報道記事で使われるのです。

審査部で扱う主要14冊の国語辞典で「転売」を調べると、すべてに「買ったものを、ほかに売り渡す」という意味が掲載されています。「転売」は「買ったもの」が対象なので、「盗んだもの」には使えません。

上記の国語辞典(三省堂国語辞典・第八版)には「買ったりしたもの」と、「たり」をつけて掲載しているので「買ったもの」以外も対象に含むと解釈することはできます。ただ、この「たり」には「譲り受けたもの(無償で得たもの)」くらいの許容範囲はあるかも知れませんが、「盗んだもの(不法に得たもの)」まで含むとは思えません。

では、なぜ「転売目的で盗んだ」といった表現が使われるのでしょう。話を聞くと、窃盗事件に関する警察発表で「転売目的で盗んだ」といった表現があり、発表内容を正確に引用する必要から報道記事にでてくるのだそうです。

警察の調べに対して容疑者がその旨の供述をしているのであれば、「転売目的で盗んだ」になるでしょう。このため、正確に引用しなくてはいけない場合、「転売目的で盗んだ」といった表現は許容範囲としています。

この「転売目的で盗んだ」も、多く目にし、耳にしていくうちに馴染んでしまうのかも知れません。しかし、転売目的で「盗む」のは犯罪です。これは馴染むわけにいきません。

久しぶりに出会いましたが、「久しぶり」がわかる気がします

「日本人ばなれ」という表現をどう思うか、という話題がでました。「すごい人」「かっこいい人」を表した際に使われたかなと思い出しますが、そういえば最近出会いません。以前はスポーツ選手や俳優などの秀でたその能力や容姿について、「ほめ言葉」「せん望」の意味をこめて違和感なく使っていたと思います。

戦後から高度成長期にわたって日本中に「世界に追いつけ追い越せ」という空気が満ちた時代、「日本人ばなれ」は自らを劣位・下位に身を置いた謙譲・謙遜としての「ほめ言葉」「せん望」だったのかな、などと想像します。

とはいえ、ここでいう「日本人」とは何でしょう。外国籍の人との間に生まれた日本人は数多く、「多様性」が強く意識される時代になりました。体格のよい日本人も数多くいます。「日本人」のイメージを標準化、固定化(最近は「ステレオタイプ」という表現を多く目にします)することは困難です。

また、あえて「日本人」のイメージを相対的に劣位におき、「日本人ばなれ」を「ほめ言葉」「せん望」とする必然もなくなったともいえます。「日本人ばなれ」は、使われなくなった、また使う必要がなくなった「死語」なのかも知れません。

表現も「ビジュアル」?

「慣用句」とは「全体で一つの意味を表す語」のことですね。例えば「愛想をつかす」は「好意や愛情、信頼がなくなる」、「煙(けむ)に巻く」は「知らないことや大げさなことを言って、相手を惑わしたり、ごまかしたりする」など、いろんな慣用句があります。

その慣用句が「文字通り」に使われてしまうことがあります。その一つに「開いた口がふさがらない」があります。「あきれて、ものが言えない」という意味なのですが、これを驚きや称賛の意味で使ったり、ただ単にぽかんと口を開けた状態に使ったりするのを目にします。

慣用句の面白さは、その表現の背景・理由を含めた解釈にあります。「開いた口がふさがらない」のは、「あきれている」という背景・感情があってこその表現で、そこに面白さがあります。とはいえ、ビジュアル(見た目)が大事とされる傾向は強く、表現もまたその影響を受けていると思います。

「開いた口がふさがらない」もビジュアル(見た目)でいえば、単に「ぽかんと口を開けた顔」になるのでしょう。ですから、驚いても、称賛していても、あるいは理由がなくても、口が開いていれば「開いた口がふさがらない」のでしょうね。

同じようなことは、「涼しい顔」という慣用句にもいえるかも知れません。「関係があるのに、関係がないかのような顔をする」という意味で、類語として「知らんぷり」「知らん顔」があります。ところが「涼しい」の印象からなのでしょうか、「大変な状況でも平気そうにしている」という意味で使われることが多いそうです。これも「涼しい顔」の背景・感情を意識せずに、ビジュアル(見た目)でとらえているのでしょう。

こうした傾向は今後も続くと思います。もしかすると「前人未踏の記録を更新し続ける○○選手の姿に、ファンは開いた口がふさがらず、選手本人は涼しい顔をしています」という表現に、違和感を覚えない日は近いのかも知れませんね。

表現したい気持ちが「そちら」を選ぶ?

夜空に広がる星々を表す言葉に「満天の星」があります。ところが、この「満天の星」を「満天の星空」と表記してしまうことがあります。「満天」は「天を満たす」のですから「空いっぱい」「空一面」という意味です。「満天の星空」ですと「満天」と「星空」に、それぞれ「空」が含まれているので重複してしまいます。「空いっぱい」「空一面」にあるのは星なので「満天の星」になります。

同じようなことに「満面の笑顔」があります。これも「満面」に「顔いっぱい」、「笑顔」に「顔」と、どちらにも「顔」が含まれ重複してしまいます。「満面」に広がるのは表情なので「満面の笑み」が本来で、「満面の笑みをたたえる」や「満面に笑みがこぼれる」といった使い方になります。

ところが「満面の笑顔」をしばしば目にしたり、耳にしたりします。これは「笑顔」を「顔」ではなく、「笑った(顔)」「ほほえんだ(顔)」という「表情」としてとらえ、「満面の笑顔」と表現してしまうのかも知れません。

「表現したい」気持ちが、「満天」では「星」よりは「星空」を、「満面」では「笑み」よりは「笑顔」を選ばせてしまうのかな、と想像しています。

「教訓」ではありますが…

「他山の石」という言葉があります。「他山の石以て玉を攻むべし」という「詩経」の言葉が由来で、「他人の『よくない』『誤った』『悪い』行動や言葉を、『自分を磨くことに役立てる』『教訓にする』」という意味で、「彼の失敗を他山の石として、皆で精進しよう」といった使い方をします。

この「他山の石」には、確かに「教訓」という意味がありますが、使い方に注意が必要です。前提として「他人の『よくない』『誤った』『悪い』行動や言葉」があるからです。ある人の行動について「他山の石」を使えば、その「ある人の行動」を「よくない」「誤った」「悪い」と評価したことになります。その行動(人)の善し悪しを評価する必要がないのに「他山の石」を使う例をみかけました。単に「教訓」の言い換えとして使っていたのです。

この「他山の石」は10年ほど前、文化庁の「国語に関する世論調査(平成25年度)」で取り上げられました。本来の「他人の誤った言行も自分の行いの参考にする」という意味で使うと答えた人は30.8%、本来の意味ではない「他人の良い言行は自分の行いの手本になる」という意味で使うと答えた人は22.6%でした。

注目したのは、意味が「わからない」と答えた人が最も多い35.9%だったことです。もしかすると今、調査すると「わからない」がもっと増えるのではないかと想像します。「他山の石」は、はっきり意味がわかるように示して使わないと、伝わりにくい表現になったのかな、と思うのです。

「言葉」を停泊中の「船」、「本来の意味」を「錨(いかり)を下ろした場所」に例えてみましょう。大きな波風があっても「錨」をしっかり下ろしていれば、「錨」を中心に「船」は一定の範囲内にとどまり、流されることはありません。でも錨を上げて「船」は移動しますから、別の場所に停泊すれば「錨」を下ろす場所も変わります。

ひょっとすると、あまりに波風が強くて「錨」とともに「船」が流される、なんてこともあるかも知れません。「言葉はいきもの」ですから、本来の意味が変わることはあるでしょうし、許容範囲が変わることもあるでしょう。そうした言葉たちが「今後、どこに流れてゆくのだろう」と、想像することが多くなったように感じています。

<執筆者略歴>  
内山 研二(うちやま・けんじ)
1963年生。1987年東京放送入社。ラジオ記者、ラジオ制作、ラジオニュースデスク等を経て、2018年よりTBSテレビ審査部。

【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版(TBSメディア総研が発行)で、テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。2024年6月、原則土曜日公開・配信のウィークリーマガジンにリニューアル。

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