「宝くじ」は、1945年、第二次世界大戦のほとんど最末期に始まりました。その後、リニューアルに次ぐリニューアルをほどこしながら、当せん金が上がるたびに、日本人は熱狂してきたのです。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)
最初は「勝札買って、飛行機を」から始まった
現在の形の宝くじは1945年7月に、少々奇妙な形で登場しました。
当初の名前は「勝札(かちふだ)」。太平洋戦争が敗戦濃厚になってくる中、戦費を募るために始めた奇策がこの勝札だったのです。当時のキャッチフレーズは「勝札買って、飛行機を」でした。
ところが、その抽選日が8月25日。
終戦が8月15日ですから、なんとも間の悪いことになったもので、人びとはこの抽選券を「負札(まけふだ)」と呼んだそうです。
戦後初の「宝くじ」は戦後復興のために
その後、勝札は「戦費」ではなく「戦災復興資金」を集めるために「宝くじ」と名前を変えてリスタートしました。
政府は財政資金の調達やインフラ再建のために、宝くじ資金はのどから手が出るほど欲しかったのです。民衆にとっても「一攫千金の夢!」は魅力的でした。
こうした中1945年10月29日が発売日となりました。売価は1枚10円。第1回の賞金は1等10万円、2等1万円、3等1000円、4等50円、5等20円で、4等までは綿布(純綿生地)が副賞として付いたそうです。
「庶民の夢」あっという間に高額化
その後、戦後の復興にともない、当せん金は高騰の一途をたどります。
昭和22年には、はやくも特等賞金100万円が登場しました。
当時の価格を言えば、庶民には到底手の届かない乗用車が20万円、東京の人気住宅地・吉祥寺の150坪豪邸が50万円の時代です。まさに「当たったらどうしよう?」だったわけです。
また、1950年前後には、宝くじは国民的な娯楽として定着し、様々な種類の宝くじが登場しました。その場で当たりくじが分かる「三角くじ」「スピードくじ」など、現代のスクラッチくじを彷彿とさせるものもありますね。
高度成長とともに行列化
宝くじが今のような形に発展するキッカケとなったのは「全国自治宝くじ」です。これによって都道府県ごとに宝くじの収益を地方自治体に配分する仕組みが整えられ、宝くじは地方財政を支える重要な収入源となりました。また東京五輪や大阪万博など、国家的行事があるたびに宝くじはその名を冠して発行されました。
1等賞金が1000万円になったのが1968年。
「ウハウハ」の立て看板前に、人びとは徹夜して並んで買いました。
年末ジャンボでますます熱狂
78年の第140回全国自治宝くじから、1等賞金が2000万円を突破します(1等・前後賞合わせると3000万円)。人びとはまたまた徹夜して並びました。
特に年末ジャンボは、歳末の一大イベントとして大晦日に当選番号発表会が賑々しく行われたものです。
時代が進むごとに、年末だけではなく「サマージャンボ」「ドリームジャンボ」など、季節ごとの大型宝くじが次々と発売されるようになりました。
時代はさらに進んで1999年。「ロト6」や「ナンバーズ」といった、数字を選んで購入するタイプの宝くじが登場し、より戦略的に楽しむ要素が増えました。平成の宝くじからはなんだか「くじ」というより「ゲーム」の要素が強くなっていったといえるかもしれません。
売上ピークは2005年
宝くじの売上ピークは2005年。
この20年というもの売上はじわじわ下がってきました。いわゆる「失われた〇〇年」が続く中、時代は「一攫千金」よりも「堅実に」という生き方を志向していったのでしょう。
日本の宝くじは、娯楽としての側面だけでなく、公共事業や福祉の資金源としての役割を果たしてきました。当せん率(期待値)は低いのですが、「夢を買う」ものとして、社会全体に貢献する形で受け入れられているとも言えます。
第1回の発売日、10月29日は「宝くじ発売の日(記念日)」となりました。
ちなみに「宝くじの日」は「くじ(九二)」の語呂合わせで9月2日となっています。
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