旧日本海軍機のプロペラの一部とみられる金属製の断片が、東京都八王子市の民家に保管されていた。専門家によると、主に日中戦争で用いられた九六式艦上爆撃機のものである可能性がある。同機は部品なども含めて現存例が知られておらず、戦争の実態を伝える資料としての役割が期待される。(吉田拓海)

九六式艦上爆撃機(防衛省防衛研究所提供)

 九六式艦上爆撃機 日本海軍が1936(昭和11)年から、空母や陸上基地で運用した2人乗りの爆撃機。主翼が上下に2枚ある複葉機で全長9.4メートル、最大時速309キロ。40年まで生産された。日中戦争では中国海軍の巡洋艦を急降下爆撃するなどした。

◆海軍航空隊員だった父の形見

プロペラ片を大切に保管していたという磯沼芳男さん(1940年5月撮影)

 断片は軽い金属製で縦17センチ、横20センチ、厚さ1センチ。元小学校教諭の磯沼素(もとむ)さん(74)の自宅に保管されていた。海軍航空隊員だった父芳男さん(2005年12月に84歳で死去)が大切にしてきた形見という。磯沼さんは「日本が、戦争という時代をたどってしまったことを思い出すための形ある教材」と話す。  磯沼さんによると、日米開戦前の1940年ごろ、芳男さんが九六式艦爆を操縦し、空母「赤城」に着艦しようとして失敗。機体は海に落下し、プロペラだけが甲板に残った。大けがなく生還した芳男さんに「これを教訓に」と上官が贈った。

◆赤い帯が当時の海軍の規定通り

九六式艦爆の一部の可能性があるプロペラ断片

 今年9月4日、元自衛官で大戦機修復の専門家中村泰三さん(56)=千葉県松戸市=が断片を調査。赤い帯状の塗装が当時の海軍の規定に合致し、資料と形が一致しており、九六式艦爆のプロペラの可能性が高いと結論づけた。当時のままで加工されていないといい、中村さんは「当時の作戦記録などで芳男さんのエピソードが裏付けられれば、資料的な価値がより高まる」としている。  磯沼さんは「父の形見ではあるが、将来的には博物館などに寄贈して、多くの人に見てもらうことも考えている」と話している。

◆製造元「社内にも残っていない」と驚く

九六式艦爆のプロペラ断片(下)を前に、父について語る磯沼素さん=東京都八王子市で(吉田拓海撮影)

 九六式艦爆を製造した現・愛知機械工業(名古屋市熱田区)の広報担当者は断片の発見に「明確に九六式艦爆と確認できる物は社内にも残っていない」と驚いた。前身の会社は「彗星(すいせい)」などの軍用機を製造し、航空機の開発が禁じられた敗戦後は民需に軸足を移した。現在は主に、自動車向けエンジンなどを製造している。 

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