新潟県長岡市の山古志地域で2018年に開かれた成人式。
「中越地震を経験したからこそ、今の山古志、今の私たちがあるのだと思います」と誓いの言葉を述べた、ひとりの男性がいました。
坂牧颯人(さかまき・はやと)さんです。

あれから6年がたち、坂牧さんは中越エリアでただ1人という『プロの和太鼓奏者』になっていました。「中越地震がなかったら、今の自分はいない…」坂牧さんがそう話すわけと、演奏に込める思いを聞きました。

“日本の原風景”が残るといわれる長岡市の山古志地域。9月、稲刈り前の田んぼが黄金色に輝く中、26歳になった坂牧颯人さんに話を聞きました。

「太鼓は本当にからだの一部ですね。たたかないと不調になるんですよ、もうなんかリズム刻んでいないと…」

山里の風景を見つめながら、こうつぶやいた坂牧さん。

この日、出身地・旧山古志村の隣にある川口地域で開かれた老人クラブの研修会で、講師として登壇。およそ70人の来場者を前に、和太鼓奏者として生きることを選んだ自身の人生について語りました。

「太鼓を始めたきっかけが“中越地震”というふうにお話させていただいた…」

2004年に発生した中越地震。
旧山古志村は震度6強の揺れに見舞われ、坂牧さん家族は南魚沼市での避難生活を余儀なくされました。当時、坂牧さんは小学1年生。入学からわずか半年後の出来事でした。

【坂牧颯人さん】
「地震は結構ショックがでかくて…。地震関連で環境が2回も変わってというのが大きくあったので」

慣れない環境で一時、不登校になったこともありました。そんな坂牧さんを変えたのが、太鼓との出会いです。

「太鼓芸能集団『鼓童』の復興支援の一環で、被災した地域の学校に“学校公演”という形で回っていたんですね。本当に肌で太鼓の力強さを感じて、なんか自分の中で『これだ!』というものに出会えたんですね」

その後、避難先から山古志へと戻り、小学3年生で太鼓を習い始めた坂牧さん。高校卒業と同時に鼓童の研修生として佐渡に渡り、まさに太鼓漬けの生活を送っていました。

しかし、ここでもまた試練が訪れます。“両ひざのじん帯損傷”です。

【坂牧颯人さん】
「軌道に乗ってきた中で、『よし太鼓で俺もやっていけるぞ』と思った矢先のけがだったので、先が見えなくなったというか、もう(鼓童の)メンバーにはなれないんだなって、ちょっと諦めたというか、大きい挫折を味わいましたね」

佐渡から地元の山古志にUターンし、2019年に坂牧さんは和太鼓奏者として生きていくことを決めました。

「中越地震がなければ、今こうして『和太鼓奏者・坂牧颯人』はいなかったと思うんですよね。(中越地震で)被災して、自分でつらい思いを経験して、東日本大震災の惨状を見て、『自分もなにかしたい』と…」

県内各地での演奏のほか、大学での講義や作曲など日々、活動の幅を広げています。

【来場者】
「山古志からこんなにすばらしい人が出るなんて夢にも思いませんでしたよ。こんなことを知ったことがうれしくて」
「心臓がずんずんと来るような感じで。中越地震の当時、小学1年生だった人がこんなに立派になって子どもは強いなと。負けていられないなと」

翌日、坂牧さんが向かったのは小千谷市にある吉谷小学校です。
この日の仕事は、子どもたちの先生。

【坂牧颯人さん】
「みんな夏休みの宿題やってきた?ちがう、ちがう…マッキー先生が出した宿題やってきた?」

学校の創立150周年を記念する式典で披露するため、児童はこの春から和太鼓の練習に励んでいます。

「太鼓はやっぱり楽しいと思ってたたかないと、お客さんに楽しいと思ってもらえない。楽しくやろう。間違えてもいいから、とりあえずにこにこすること!」

子どもたちが練習しているのは、地域の祭りでおなじみの曲。子どもたちには次第に笑顔があふれていきました。

【小学4年生】
―友達と一緒に太鼓たたくのはどう?「楽しいです」

【小千谷市立吉谷小学校 高田紀子校長】
「坂牧先生は山古志出身で、けがもなさって、一度夢が壊れかけたんだけど、そこを乗り越えて夢をかなえたというところで、キャリア教育としてもすてきな講師だと思っています。楽しい経験が将来、児童の豊かな人生につながると思います」

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