愛らしい外見としぐさでどこの国でも人気のパンダですが、今も昔も中国にとっては必殺の外交手段でした。年配の方は「ランランとカンカン」をご存じでしょうが、実はそれよりはるか前、日中戦争の頃にパンダ外交はスタートしていたのです。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

ランランとカンカンがやってきた

ときは1972年。日中国交正常化の際、中国から日本に2頭のパンダ「ランラン」と「カンカン」がやってきました。

羽田空港に到着したパンダケージ「康康君」「蘭蘭さん」と書いてあります。なんとも人間扱いです。

日中友好のあかしとして上野動物園に送られ、当時、一大「パンダブーム」が起きました。パンダは中国固有の珍しい動物であり、見た目としぐさの可愛らしさに日本人はたちまち魅了されました。

パンダを一目見ようと集まった人の行列は2kmにも及んだそうです。。

一目見ようと、上野動物園には親子連れが行列を作り、一瞬のチラ見のために、5時間も6時間も待ったといいます。高度成長も終盤、石油ショック前夜の「最後の祭り」という時代でした。

日中戦争の頃にパンダがアメリカに贈られた

中国にとって「外交の最終兵器」パンダ。実は意外なことに「パンダ外交」が始まったのは日中戦争時まで遡ります。最初の事例は、まだ中華人民共和国が成立する前。1941年の蒋介石政権下です。
まさに日中戦争のさなかに、蒋介石は当時のアメリカにパンダを贈りました。

蒋介石本人よりも妻の宋美齢の方がパンダ贈呈プロジェクトを主導したと伝えられています。(*敬称略)

これはアメリカとの友好関係を強化し、日本に対抗するために国際的な支持を得る目的でした。

周到なパンダ作戦

1941年のアメリカへのパンダ贈呈は周到に練られた米国抱き込み作戦の一環でした。
じつは5年前、アメリカ人女性が、子パンダを生け捕りにしてアメリカに連れて帰ったことがありました。このパンダは「スーリン」と名づけられて動物園の人気者になりました。そういう先例があったのです。

「スーリン」と名付けられたパンダはアメリカで大人気となりました。

アメリカでもパンダはイケる。国民党中央宣伝部国際宣伝処工作報告によると、41年のパンダ贈呈の背後では、次のような13の計画が進んだといいます。

①CBSラジオによる、全米自動パンダ命名大会
②雑誌NEAに記事掲載
③雑誌『Newsweek』『TIME』などに捕獲の経緯を掲載
④パンダ護送の過程をAP通信独占取材 ……などなど。

パンダの奥にはこんなにたくさんの宣伝工作があったわけです。(「上田晋也のニッポンの過去問」から)

中国の目論見通り、アメリカではパンダブームが起きました。
もちろん日本では逆の反応になります。戦中戦前の日本ではパンダにネガティブなイメージがあったのです。

パンダの米国への贈呈は日本では非常にネガティブに捉えられました。

環境保護の象徴として

戦後、パンダというものは環境保護の象徴となっていきます。
中国はパンダの捕獲を禁止し、世界に送るパンダについても「贈与」ではなく「貸与」に切り替えました。世界自然保護基金(WWF)のシンボルマークもパンダとなっています。

世界各国の動物園にパンダはいますが、すべて中国からの「貸与」です。

珍しさ、愛らしさから、パンダには世界にファンがいます。アメリカでは「親中派」の政治家のことを「パンダハガー(パンダを抱く人)」と呼びます。それほどパンダは外交の武器として活用されていた、というひとつのあらわれでしょう。

人気雑誌『an・an』はじつはパンダがシンボル

じつはあの人気雑誌『an・an』のシンボルマークは、パンダでした。

創刊号からしばらくのあいだ表紙にパンダは居続けました。

それだけじゃありません、an・anという雑誌タイトル自体が、当時モスクワの動物園にいたパンダの名前だったのです。いつの世もパンダは女性に人気なんですね。

上野公園の郵便ポストは、いまもご覧のようにパンダ柄です。

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